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November 26, 2005

「ザ・ディレクター [市民ケーン]の真実」

thedirector.jpg 原題は、この映画のもとになっている映画「市民ケーン」の制作配給会社であるRKOの通し番号「RKO281」。撮影当時、映画の内容やタイトルが秘せられていたから、こう呼ばれていたらしいです。
 オーソン・ウェルズの「市民ケーン」は映画界にとっては歴代映画一位に輝くほどのもの。と同時に、当時もいろいろと物議をかもしもし、メディアについて考えたことのある人は少なからず目にする名前が目白押し。この映画だけを見ると別になんてことない作品ですが、その背景を知っていると、楽しめるんじゃないでしょうか。

 siminkain.jpg 「市民ケーン」という映画は、当時の若き演劇界のカリスマであったオーソン・ウェルズが映画界に打って出で苦難の末に創り出した作品。興行的には失敗だったけど、映画作品としては作家主義以降に高く評価されている。とにかく、こちらを見ていないと、「ザ・ディレクター」も楽しめません。まずは「市民ケーン」を見ましょう。幸いなことになんとDVDで五百円。
 でも「市民ケーン」は古い映画、あまり面白さを求めてはいけません。当時としては画期的な技術を使っていたり芸術作品であるとしても、画面は暗いし、登場人物は少ないし、画面の切り替えがよくわからないかも。主題は大金持ちの愛と孤独にあるので近代小説っぽいし。それよりも主役のケーンが、その当時に新聞王として健在だったハーストをネタにしていることを知っておくことが大事。ハーストといえば、ピュリッーと並んでセンショーナリズムなイエロージャーナリズムを先導し、スペイン戦争をけしかけたといわれたりすることで、とても有名。こちらではハーストの大邸宅を模したザナドゥをよく見ておくといいかも。

siminkainsubetesinnjitu.jpg さらにこの本を読んでおくともっと楽しめるかも。キャリンジャー『「市民ケーン」、すべて真実』筑摩書房。ウェルズの契約、脚本の内実、クレジットの争い、映画セットとマット・ペインティングの駆使、トーランドというカメラマンの技術と芸術性、音楽と画面作りなど、作家主義からみたウェルズ作品というよりも、集団作業としての「市民ケーン」のことがこの本でよくわかります。

 さて『ザ・ディレクター』ですが、冒頭は「市民ケーン」のパロディ。「市民ケーン」の冒頭は主役ケーンの死、次にケーン死亡のニュース映画作りのシーンになってますが、『ザ』ではウェルズのハリウッド進出のニュース映画。
 映画を撮る契約をしたものの撮る作品を決めかねているウェルズと脚本担当のマンキウィッツは、たまたま出席した新聞王ハーストのパーティで、彼を撮ることを決めるが、映画界に力を持つハーストのこと、一波乱あることはわかってる(この話はウソだけど)。

 そんなシーンにでてくるハーストの宮殿のような家サンシメオンは、実物よりも「市民ケーン」の宮殿ザナドゥに似ている。「市民ケーン」では折衷的な悪趣味が強調して描かれている。愛人のマリオンは「市民ケーン」よりもいい人で、たぶん実像に近い。ほかにもカメラマン、作曲家、俳優、芸能記者、RKOの社長などとの絡みは、元ネタを知っているほどよくわかる。そして映画を握りつぶそうとするハースト、脅されるユダヤ系のハリウッド社長たち。さて結末はー、と全部が史実ではないけれど、「市民ケーン」にまつわる話がもりだくさんです。「バラのつぼみ」とは何かとかもね。

 まあ短い時間に盛りだくさんなので、みんなちょっとずつですが、映画としては並、「市民ケーン」のことを知ってれば、それなりに楽しめる、いわばハリウッドの内輪受けの映画ということでしょう。逆にいえばハリウッド通は見なくてはいけない、ということになるから企画としてはOKなんでしょうね。

投稿者 it : 12:41 PM | コメント (0)

November 21, 2005

欲しい本

ジャック・デュボア『探偵小説あるいはモデルニテ』法政大学出版局、1998
ジークフリート・クラカウアー『探偵小説の哲学』法政大学出版局、2005
小倉孝誠『推理小説の源流―ガボリオからルブランへ』淡交社、2002
別府恵子ほか『探偵小説と多元文化社会』英宝社、1999
佐野衛『探偵小説はなぜ人を殺すのか』北宋社、2000
フレイドン・ホヴェイダ『推理小説の歴史はアルキメデスに始まる』東京創元社、1981
吉田司雄『探偵小説と日本近代』青弓社、2004
内田隆三『探偵小説の社会学』岩波書店、2001
伊藤秀雄『黒岩涙香―探偵小説の元祖』三一書房、1988
笠井潔『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?―探偵小説の再定義』早川書房、2001
笠井潔『探偵小説と二〇世紀精神 ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』東京創元社、2005
笠井潔『『探偵小説と否定神学 ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?(仮)』東京創元社、2006春刊行予定

一柳広孝『こっくりさんと千里眼』講談社選書メチエ、1994
一柳広孝『催眠術の日本近代』青弓社、1997
一柳広孝『心霊写真は語る』青弓社、2004
コナン・ドイル『コナンドイルの心霊ミステリー』ハルキ文庫(角川春樹事務所)、1998
小池壮彦『心霊写真 不思議をめぐる事件史』宝島社文庫、2005
田中聡『怪物科学者の時代』晶文社、1998
南博監修『近代庶民生活誌19巻 迷信・占い・心霊現象』三一書房、1992
佐藤達哉・溝口元『通史 日本の心理学』北大路書房、1997
ウォーレス『心霊と進化と―奇跡と近代スピリチュアリズム』潮文社、1985
と学会『トンデモ超常現象99の真相 』宝島社文庫、改訂版2000

クリストファー・ヒバート『倫敦路地裏犯科帳―イギリス裏社会と怪盗ジャック・シェパード』東洋書林、1999
安達正勝『死刑執行人サンソン』集英社新書、2003
フランツ・シュミット『ある首斬り役人の日記』白水社Uブックス、2003

投稿者 it : 01:23 PM | コメント (0)

November 14, 2005

箕輪成男『パピルスが伝えた文明』出版ニュース社、2002

papirus.jpg 副題は「ギリシャ・ローマの本屋」。エジプトやオリエントの社会では、文字を記録する素材としてパピルスを編みだし頻繁に使っていた。同じように植物を素材にした、いわゆる紙、が発明されるずっと前のことだ。パピルスはもろい。そのため後生に残りにくく、その時代のことを再構成することは難しい。でもこの本は、散見される資料から、ギリシャ・ローマ時代の光景を少しかいま見せてくれる。

 パピルスは主にエジプトで作られていた。だから、この書写材料を支配することが、情報の伝播や拡散に影響を与えたといわれる。よくいわれるのは、羊皮紙のことだろう。どこか読んだか忘れたがパーチメントと呼ばれる羊皮紙は、ペルガモンの皮という意味らしい。
 アレクサンドリア図書館とペルガモン図書館がその蔵書を競い合っていたとき、エジプト側にある前者が、後者にパピルスを供給しないようにさせたために、困ったペルガモン側が羊皮紙を使うようになったという。またパピルスよりも羊皮紙の方が安くついたため、書き物を必要としていたが貧乏なキリスト教は羊皮紙を使ったともいわれる。羊皮紙を作るためにはたくさんの動物を犠牲にするが、食べた家畜の余り物だったと考えればいい。

 本屋はすでに前五世紀後半のアテナイにあった。アテナイ市民は、朝に本屋に行って新刊情報をネタに議論をした。そこにはフィロゾーフたちが大勢いたのだろうか。「ソクラテスの弁明」には、せいぜい1ドラクマで本が買えるとも書いてある。

 この本では、随所にコストを独自に計算していて、それがとても参考になる。たとえば前五世紀のアテナイでパピルス巻子本一本代は3~7日間の職人賃金に相当し、紀元1世紀のローマでは今日でいうと巻物一本分のパピルス代が30~35ドル程度になり、現代の紙代の一万倍以上になるという。
 ちなみに、奈良時代の写経一巻は、写経生賃金21日分、元禄時代の学術刊行本は大工手間賃の1.69日分、昭和50年の学術書は国民所得一人分の0.16日分。その時代ごとに本を購入する層を考えると、どれもそう高くはないかもしれない。

 写本で本を作るシステムもそう高くはつかないと指摘されている点も興味深い。それはアテナイでもローマでも奴隷たちがたくさんいたからで、ギリシャでは市民と奴隷は厳然と区別されていたし、ローマでは戦争で獲得された教養ある奴隷たちがたくさんいた。だから時間はかかるが、受注生産で本を作れば損失もない。写本は、機械と人手を使った印刷生産システムに初期投資がいることを考えれば、コストはかからない。
 どのような社会かを考えないと、そうしたことはなかなか理解できないだろう。そう考えれば日本を含めた東アジアでも活版印刷機はほとんど使われなかったが、それは木版印刷で十分こと足りたからだったし。

 この本で扱われている本の周辺に関する資料は、はっきりいってスカスカだ。とはいっても、それは資料となるような記録も発掘材料も極端に少ないのだから仕方がないだろう。それでも、手近に集められる資料から、ある程度の背景をかいま見せてくれる点で貴重だし、他に参考となるような本も少ない。著者はこの後に『写本の社会史』も書いているので、そちらも見てみようと思う。

投稿者 it : 06:54 PM | コメント (0)

November 12, 2005

「オーロラの彼方へ」

orora.jpg タイトルからはあんまり内容が想像できないが、主人公は刑事、でもいわゆる刑事物ではなくてSFものの範疇かな。父親が消防士なので、バックドラフトみたいな感じもある。親子の愛情を全面に出して、最後はほのぼのした作品にもなっているサスペンス、とちょっと変わった作品でした。

 すでに父親を亡くしている主人公は、一人暮らし。ある事件を抱えている。30年前に出たオーロラが、ちょうどいま出ている。たぶんそれが原因で、なんと30年を隔てた親子が会話を交わすことになる。荒唐無稽な話だけど、無線機を使って。かつて父親は無線が趣味で、その骨董品をたまたま見つけた主人公が、たまたま会話を交わした相手が、30年前の父親だった、という設定。

 タイムトラベルの要素が入ってくるから、バックトゥーザフューチャーみたいな話も加わって、いろいろと盛りだくさんです。映画の内容はそれなりに面白いし、飽きさせないようにできていて、まあ映画らしい映画といえるでしょう。

 でも、ここで注目しておきたいのは、無線機が過去の亡霊を呼び出すというメディアにかかわる想像力。この設定には、メディアはいつも不思議なものだという想像力が見られる。ただの機械だし、原理も物理的にわかっているもののはずだけど、そんなものが過去と現在をつなぐメディアとなる、といわれると、そんなこともできるかも、できたらいいのにな、あるいは何かのきっかけで、できてもおかしくないかなー、と思ったりもする。たぶん、実際には原理をよくわかってないからなんですね。
 近代技術が可能にしたいろいろなメディアは、いつでもそんな想像力を養ってきた。とくに無線は、やはり不思議な存在。それは魅力的であると同時に怪しげなもので、魔術や魔法とも関連があるかなような雰囲気を醸し出す。心霊写真を見せられると、それがウソっぽくても真偽を判断しかねてしまう心理も似たようなものだろう。
 この映画は、そんな心理を使って、メディアが醸し出す人間の想像力をうまく引き出している。メディアとコミュニケーションの心性史は、そこのところをすくい出さなくてはいけないが、いままであまりきちんと論じられていないと思う。そんなことを再確認させてくれる映画でした。

投稿者 it : 12:33 PM | コメント (0)

November 10, 2005

欲しい本

八尋茂樹『テレビゲーム解釈論序説』現代書館、2005
ぱるぼら『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』翔泳社、2005、そういえば買ってなかった
マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化 映画・文学・アングラ』青土社、2005
船木亨『デジタルメディア時代の≪方法序説≫ 』ナカニシヤ出版、2005
箕輪成男『紙と羊皮紙・写本の社会史』出版ニュース社、2004

投稿者 it : 02:57 PM | コメント (0)

November 09, 2005

飯田卓・原知章編『電子メディアを飼いならす』せりか書房、2005

denshimedia.jpg最近、文化人類学系の洋書でメディアを題材にしたものが多いなと思っていたら、国内でもやっぱりやってたんですね。
 文化人類学はもともと文化を扱う分野だし、その文化を書き、他者に表現することについて、またフィールドに関わることで文化に介在することについて真摯に反省する姿勢を早くから見せていた。対象のフィールドを映像にしたり、テレビの表現を問題にしたりすることも必然だ。ジェンダー表象の問題については身近にわかりやすい題材があるけど、人種や民族なんかだといまいちしっくりこなかったのが、この系統の事例が増えてくれば、理解が深まるんじゃないでしょうか。結構な数の論文が集められているけど、どれも興味深いものでした。

 とくに興味深いし理解がしやすいのは、やはり「ウルルン滞在記」などのテレビ番組のコーディネーターをした体験記。番組制作者は文化人類学系の雑誌や専門書をチェックしていて、使えそうな題材があるとすぐにアプローチしてくるそうだし、使い回しも頻繁だそうだ。番組制作の論理からすると、わかりやすい物語を視聴者に伝えることを第一に考える。でもそれは、ときには演技を強要したり、文化をずれて翻訳することになってしまう。悪くいうと、最初に想定したストーリーをつくるために、やらせを繰り返すことになるし、既成の未開概念を執拗に強調した単純なウソを現実だと表現することになる。

 ここで語られているのは、単純な番組批判ではなく、現代のコンテンツ制作の具体的なありようと過程をかいま見せてくれる貴重な事例だ。こうした制作の論理を丁寧にまとめていく作業がこれからも必要だろう。この点では、タックマン『ニュース社会学』三嶺書房が、新聞製作の過程を参与観察したものがあるが、具体的な事例はあまりないと思う。

 現代には純粋無垢な文化は存在しないだろうし、どんなイベントだってマス・メディアに取り上げられることを期待しているし前提にさえしてもいる。それは町おこしだろうと、お祭りだろうと、昔ながらといわれる祭礼だろうとかわりがない。そうしたものの記録をとっていくことも、文化人類学の仕事だろう。

 文化研究でフィールドを重視するようなメディア研究は、この本のような文化人類学アプローチに合流していくだろうな、やっぱり。というか分野間の相互交流でこうなっていったのかな。
 

投稿者 it : 04:36 PM | コメント (0)

November 07, 2005

高木徹『戦争広告代理店』講談社文庫、2005ほか

sensokoukokudairiten_.jpg 国家レベルのPR戦略は具体的にどのように行われているのだろうか。そんなことはわかるはずもないのだが、この本を読めばなんとその一端がかなり具体的にわかる、すごい。ここに出てくるのはいわゆる脚光を浴びるような広告の話ではない。でもPR会社のホントの仕事はここに余すことなく語られているだろう。数年前の本だけど、文庫化されて手に取りやすく、また少しだけバージョンアップも。

 国の命運がかかっている時、それをどうすればいいのか。ボスニア紛争の当事者たちは、力ある国家に援助を求めようとする。でも簡単にウンと言えるものでもないし、国連がどう決議するかなんてことも関係がある。どうすれば有利に事が運べるのか。そんな命運を左右するのに、実は民間のPR会社が大きな影響力をふるっている。緻密に戦略を立てて、善のイメージを創出し、世論を味方に付け、有無をいわさせないようにしていくには。どっかで聞いたことがあるような出来事だが、ここにはボスニア紛争時での具体的な動きが描かれている。

 この本の主役は誰なのかといえば、やはりPR会社を率いるジム・ハーフだろうな。これは驚くべきこと。だってただのPR会社だよ。それが一つの政府と契約を交わして、いろいろな決定を左右することになるんだから。直接手を下したり、騙したり圧力をかけたりするわけではない。既存メディアが記事にするときの判断材料を提供し、ロビー活動で現状を説明し、場に訴え、相手を悪くイメージ化し、有利な言論が出てくるように適時にファックスを送り続ける。 PRというのは元来そういうものだが、そこに巨額の金額が動いていると考えると、やはり空恐ろしい。

propaganda.jpg もちろん国レベルでも情報戦略はやっている。米情報局を取り上げているナンシー・スノーの『プロパガンダ株式会社』明石書店では、民主主義ではなくて、とにかく経済優先に大きく傾きながら、アメリカに有利になるように情報を提供しようとする情報戦略の姿勢を非難している。スノーはなかで少し働いていた内部の視点から書いているが、この視点は大変わかりやすい。
 だって、国が意図的に情報を左右しようとしているわけだから、古典的な情報操作の枠だ。これだと嫌悪感を抱きやすいし、反対もしやすい。でもでも民間がお金をもらってそんなことを色々とやり合っているとすると、実際にはどうなっているのか、はっきりいってわけがわからん。
 PRというのは、うさんくさいものだ。いきつくところはPRの倫理だということになるが、そんなことをみんなが遵守するわけがない。だからとても難しい。それに比べるとジャーナリズムの倫理はわかりやすい。どちらにしてもまあ信頼感が大事なんだけどね。

 アメリカのPRの創始者といえばバーネーズということになるだろう。
PR_.jpgその点については、ユーウェンの『PR!世論操作の社会史』法政大学出版局がかなり詳しく扱っているし、実際にインタビューに登場してくる。こちらは企業広報のあり方をめぐるものがメイン。上記の二冊にもバーネイズは出てくるので、併せて読むのがいいと思う。
 PRは絶対に口コミをねらう。しかも自主的な口コミをいかにうまく自然に発生させるのか、またいかに既存の信頼されたメディアに有利に掲載するようにするのかを競い合う。それを知っていて損はないというか、知っていなくてはいけないと思う。そのためにも、読んだ方がいいよなこの本。 

投稿者 it : 05:38 PM | コメント (0)