<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed version="0.3" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/" xml:lang="en">
<title>MICCS</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/" />
<modified>2010-06-17T03:09:03Z</modified>
<tagline>メディアとコミュニケーションの思想史を扱います
そろそろちゃんと書くからー</tagline>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2010:/~ito//1</id>
<generator url="http://www.movabletype.org/" version="4.01">Movable Type</generator>
<copyright>Copyright (c) 2010, it</copyright>

<entry>
<title>山田俊治『大衆新聞がつくる明治の〈日本〉』NHKブックス、2002</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2010/06/nhk2002.html" />
<modified>2010-06-17T03:09:03Z</modified>
<issued>2010-06-17T07:43:30Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2010:/~ito//1.90</id>
<created>2010-06-17T07:43:30Z</created>
<summary type="text/plain"> 　明治期には、当時の新しいメディアであった新聞が各種発行された。 　ジャーナリ...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>books</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="taishusinbungatukuru.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/photo/taishusinbungatukuru.jpg" width="170" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 20px 20px 0;"/></span>

<p>　明治期には、当時の新しいメディアであった新聞が各種発行された。</p>

<p>　ジャーナリズム史でいうと、まじめな正論を論じる大判の「大新聞」と女子ども向けで市井の事柄を多く取り上げる小判の「小新聞」とに分類されるのだが、この本は、主に初期の小新聞の代表的存在といえる読売新聞の記事内容を題材にしている。</p>

<p>　新聞という存在と社会、文化、啓蒙、大衆ジャーナリズム、国民国家などとの関係を論じているが、薄い割に多様な論点をあつかっていてよい本だと思う。特に、まじめなジャーナリズム論を展開していないところがよい。</p>]]>
<![CDATA[<p>　それはもちろん、この本の題材が「読売新聞」という小新聞、つまり意識的に大衆読者を相手にしようとした読み物だからなのだが、著者が文学畑だからということもある。</p>

<p>　「読売新聞」は、現在では世界一の発行部数を誇るが、正直あまりよい印象の新聞ではない。</p>

<p>　明治の初期には、小新聞の代表格で部数もトップだった。が、明治も20年代になると東京進出した大阪勢の朝日と毎日や中央新聞や時事新報といった大新聞と小新聞をあわせたようないわば中新聞に押されていった。また小新聞ネタ満載の万朝報が中新聞よりも人気を博したことを合わせると、ただの弱小新聞社になってほそぼそと続いていた新聞であったといえる。</p>

<p>　そんな弱小新聞が再浮上したのは、いわくつき警察高級官僚だった正力松太郎が買収し商売に乗り出したから。プロ野球に代表されるメディアイベントで成功し次世代のテレビメディアの時流にものって商売に成功した読売は、保守的な立場から政治に首を突っ込もうとすることでも知られている。産経と読売の保守主義はけっこう目に余る。また最近、無料で配られている読売新聞をよくみるが、部数が低下しているのに、一千万部の大台を維持するためにかなり無理矢理なことをやっている。</p>

<p>　といったような話はこの本にはでてこない。</p>

<p>　ので、本書に戻るが、読売新聞は創刊からの紙面をいち早くデジタル化していて、そもそも言説分析しやすい新聞で、そうした研究かなと思ってすぐに手を出さなかった。実際読んでみると、題材として取り上げている記事は、創刊から2年ぐらいの話ばかりで、主に大衆向け読み物として発達した新聞という新メディアの最初期のスタンスを紹介するという内容になっている。</p>

<p>　そういう意味では、せめてもう少し長いスパンを扱って欲しいという不満は残るが、興味深い論点はいくつもあった。特に、大衆は新聞という読み物に何を求めたのか、また新聞という存在に触れることで何を意識するようになったのかという視点は、あまり正面から論じられてこなかった論点だと思う。これらは六章「読者の欲望の行方」と七章「懲戒する新聞」で論じられている。</p>

<p>　「読者が求めたのは、たとえ解釈に誤りがあっても『面白く』物語れた情痴事件などであった」(p.182)といったような投稿欄を紹介しながらの指摘は、なかなか正面から論じられない論点だろう。こうした点は、新聞規制を始めた政府に新聞がどう対応したのかということから示されている。「読者が新聞を読むのは『開化の導』という表向きの理由からだけではなかった。だから、事件記事を読む楽しみを失った読者が、新聞から離れることはありえたのである。」(p.183)。</p>

<p>　それは困るからこそ、「新聞社の建て前と読者の本音」の両方が紙面に現れる。そのために新聞規制の幅を探りながら「情死や強淫や間男騒動人殺大盗賊」がまた増えていく(同)。そうして「文字を消費する娯楽とする大衆の欲望を開発」し、「大衆読者の読む欲望に応えた、読んで面白い媒体として、小新聞が一般化していく。」(p.184)。</p>

<p>　第七章では、新聞の社会性というか、新聞によって人の目にさらされることで罰を与えようとする新聞と読者の意識が扱われている。「新聞が作り出した、犯罪者を犯罪者として眼差す視線によって、犯罪者は二重に罰せられていた。それゆえ、新聞に書き出されることは、差別的な視線にさらされることだということを覚悟しなければならなかったのである。」(p.200)。これは現代でも通底する「新聞の抑止力」を肯定しそれに積極的に荷担しようとする読者の視線といえるだろう。</p>

<p>　当時の紙面は、現代みたいに完結に事実を提示することだけを意識した記事ではなく、道徳的な含みも加味したかなりあからさまな内容になっていた。だからこそ、そうした視線もあからさまにみられる。著者は「人倫の鏡となるという新聞の道徳的な働きが、情報以上の懲戒性を記事に与えてしまうのである。」という(p.204)。</p>

<p>　当時も、本当がどうかは別にして新聞沙汰になったことで自殺をする人がいた。新聞は、「情死や強淫や間男騒動人殺大盗賊」を興味を持って読むことで、読者の「規範の内面化」を促すわけである。「新聞は個人の内面に社会的な視線を生成していた」(p.205)。<br />
　<blockquote>「読者は、自らを排除するかもしれない『世間』を新聞によって内面化し、新聞から指弾される当事者にならないように心掛けるようになる。犯罪を犯さないかぎり、新聞メディアが代行する社会的な視線を自らのものとして、第三者の位置にあり続けることができたからである。」<br />
　「悪事を見逃さない『上』の視線とは、新聞によって内面化された読者自身の規範にほかならなかった。人々は、それぞれの内面に、新聞という鏡を所有して、犯罪者を差異として眼差していく社会を作り上げていくのである。」(p.206)</blockquote></p>

<p>　大衆新聞は、主にゴシップやスキャンダルを好む読者を相手にしていたわけだが、テレビのワイドショーも同じ内容の焼き直しだと思えばいい。基本的に、大衆メディアは政治に参加する市民社会が維持したわけではなく見世物を求める興味本位の娯楽大衆のものあった。ジャーナリズムやマスメディアの難渋はいつも、いまでも、そこにあるといえる。</p>

<p>　それと、ここに治安維持のための機能が公開処刑と懲罰からマスメディアに移行していることも見て取れる。それを明治期に整合的に提示することは難しいかもしれないが、パラレルな出来事であったことは間違いないだろう。この前に紹介した<a href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2010/06/v2009.html">『血塗られた慈悲、笞打つ帝国』</a>をあわせて読むとよい。</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>ダニエル・V・ボツマン『血塗られた慈悲、笞打つ帝国』インターシフト、2009</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2010/06/v2009.html" />
<modified>2010-06-10T05:29:30Z</modified>
<issued>2010-06-08T11:07:47Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2010:/~ito//1.89</id>
<created>2010-06-08T11:07:47Z</created>
<summary type="text/plain"> 　タイトルすごいけど、原書では、&quot;Punishment and power i...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>books</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="tinuraretajihi7.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/photo/tinuraretajihi7.jpg" width="140" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;"/></span>
　タイトルすごいけど、原書では、"Punishment and power in the Making of Modern Japan"。「近代日本期の刑罰と権力」といったところでしょうか。

<p>　副題は「江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたか？」とある。こちらの方がわかりやすい。帯にも褒めちぎりの言葉がまぶしてあったりして、編集者の作戦でしょうが、このタイトルで得しているのか損しているのか微妙なところ。</p>

<p>　でもまあフーコーの『監獄の誕生』を意識して書かれていることは間違いない。</p>]]>
<![CDATA[<p>　この本を読んだのは、村上直之『近代ジャーナリズムの誕生』岩波書店の話につながるのではと思ったから。これにはイギリスでの公開処刑の廃止と新聞の発達との流れが興味深く描かれている。ここには19世紀における感受性の変容が関係しているのだが、日本での状況はどうなのだろうとずっと思って調べようと思っていた。で、ようやく手軽に読めるそれらしき本と思い手に取った。</p>

<p>　結論からいうと、新聞やジャーナリズムについては触れていなかった。とはいえ丁寧に書かれた歴史書で、刑罰制度の変遷についてはよくわかる。</p>

<p>　近代的な規律の浸透の理由についての基本的なスタンスは、不平等条約を改正するために、諸外国の視線を意識したうえでの制度化としていて目新しくはない。そうした植民地帝国主義の姿勢をまねた明治政府が、中国や台湾や韓国に同様の不平等条約を結ばせたり、野蛮人への過酷な刑罰化を踏襲したこと、炭坑労働等を多くの囚人がになっていたことも丁寧に描かれている。</p>

<p>　勉強になったのは、江戸時代の刑罰制度について。時代劇に出てくるような拷問や牢名主による統制、引き回しや、はりつけ、火あぶりといった処刑があったことはもちろんだが、イギリスと違って公開処刑はあまり行われていない。けれどもさらし首は行われていて、これは佐賀の乱での江藤新平まで続いている。つまり死体の一部を切断して衆人の目にさらしていた。1862-5年の間、さらし首である獄門は江戸で123件あったという(p.34)。</p>

<p>　江戸後期にさらし首が行われていた場所として有名なのは、鈴ヶ森と小塚原。品川から横浜にいたる京急線が人気がないのは、鈴ヶ森刑場の跡地の沿線だからなんだろうなと納得した。著者は、こうした高札についての「病的な魅力」を指摘してもいる(p.40)。おぞましさもの、怖いもの見たさ、または見世物としての魅力ということだろう。この点は現代の新聞沙汰や事件もの、スキャンダルの魅力に引き継がれている。</p>

<p>　また「刑罰を効果的に晒すのは確かに有益だが、、名君という武士のイメージを守るためには、慈悲を生かした様々な戦略とのバランス」(p.85)が重要だったという指摘が興味深い。残虐性やむごさと慈悲や恩赦といった両面が徳川幕府の政治政策としてあり、名君がむごさを与えている印象を薄れさせるためには、被差別民の役目も重要だった。刑罰に関わる作業や引き回しやさらし首の番人のような役は、被差別人がになっていた。これは被差別人の特権とでもいえるものでもあったから、明治期にこの役目がなくなることに抵抗してもいる。</p>

<p>　明治期における刑罰や監獄制度の制度変更は、確かに厳罰から矯正への思想的流れがあるし、身体ではなく精神にうったえるフーコーが指摘したようなパノプティコン、日本語では「一目洞視」が導入されたりしている。また居所のない者を収容する場である人足寄場は、労働や救済といった考え方として道徳的宗教的背景も含めて考えなくてはならないことだろう。</p>

<p>　全般を通じて、参考文献も豊富で問題を引き続き考察するためにもよい本だと思う。最後になるが、翻訳がすばらしい。ほんとに原書から訳したのか、と疑ってしまうほど流ちょうな訳で、古い言葉がたくさん出てくるのに読みにくいところはほぼない。それに古い言葉や法律の現代語訳風の紹介もとても助かる。<br />
　</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>フランシス・ハチスン『美と徳の観念の起源』玉川大学出版局</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2010/06/post-54.html" />
<modified>2010-06-10T05:30:01Z</modified>
<issued>2010-06-07T07:35:58Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2010:/~ito//1.88</id>
<created>2010-06-07T07:35:58Z</created>
<summary type="text/plain">　 　この本の初版は1725年で、ハチスンはグラスゴー大学教授だった人物。そのポ...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>books</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="hutcheson8.JPG" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/photo/hutcheson8.JPG" width="140" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;"/></span>　
　この本の初版は1725年で、ハチスンはグラスゴー大学教授だった人物。そのポストの後釜がアダム・スミスであったということもあり、スコットランド道徳哲学に強い影響を与えたといわれている。

<p>　ハチスン自身も牧師だが、18世紀の前半はいまだかなり神学色が強く、神学と道徳との結びつきの問題が哲学であった時代。しかし、そうした傾向に啓蒙主義的な思想が入り込んできた時代でもあった。</p>

<p>　正直、おもしろい本ではない。というか今の時代で一般受けする書籍ではないが、その時代には広く受け入れられたというので、当時の考え方と思想の流れを知る必読書といえるだろう。　</p>]]>
<![CDATA[<p>　そんな難しいことが書いてあるわけではないが読み通すのにかなり時間がかかった。つまりは、やはりおもしろくないんだこれが。だって結局は、人間は神様がうまく創造した、という話しかしない。とはいえ、だからこそ17世紀から18世紀にかけての思想の流れを概観するには触れておいたほうがいいとも思う。</p>

<p>　この本の主題は、タイトル通り「美と徳」だが、主に徳について書かれていて、美については道徳観念から演繹されるような形になっている。いちおう経験主義なんだけどね。<br />
　この本を読んでおこうと思ったのは、シャフツベリー思想が反映されているらしいからだったが、特に前半の美の観念については確かにシャフツベリーの考え方を踏襲している。</p>

<p>　話はとにかく性善説。ホッブスやマンデヴィルの性悪説との対立姿勢がかいまみえる。人間は利他的で、仁愛benevolentに満ちており、世界は美と秩序と調和に満ちている。そうした話をそもそも神様がそうしたからそうなっているといういわば生得説で証明しようとする。人間には味覚や臭覚のように道徳感覚が備わっており、それは教育などから学習されるものではないということになる。<br />
　また啓蒙思想をかじっているからか、数学を使いたがるところがあり、徳は必然的に「最大多数の最大幸福」を目指すとも導いている。</p>

<p>　ハチスンによると人間には「美と調和の感覚」が備わっており、この内的な「快い観念を受容する」すぐれた能力こそが「趣味」だという。こうした考え方には、快、趣味、道徳、を明確に結びつける思想があらわれている。<br />
　ハチスンにとっての美の定義は「多様性のなかの均一性」。誰もが内的感覚によって知ることができ快を感じるものとされ、ピューリタンの選民的な思想よりも博愛と寛容を感じさせる。もっともこうした思想が道徳と結びつくとき、ハチスンが実際にはどこまでの範囲で捉えているかは疑わしい。<br />
　<br />
　というのもハチスンは対象の好みの違いを想定しており、その理由にロック流の連合観念を持ち込んでいるからである。<br />
　人間の初期状態を白紙としたロックは執拗に生得説を否定し、理性と教育を強調していた。だが、このロックを家庭教師にもったシャフツベリーは、すべてが調和した世界を想定し、秩序と調和は神の御心で、美を直感する生得的な能力があるとした。<br />
　ハチスンの思想は、いわば両者の折衷のようにみえる。美と秩序と調和に快を感じるのは、生得的で必然であり、そうした能力を持っているということは道徳観念が植え込まれていることになる。けれどもここにんらかの違いを想定することも必要としたのである。</p>

<p>　こうしたシャフツベリーから受け継いだ楽観的なハチスンの思想は、ヒュームとスミスに強い影響を与え受け継がれているという。ヒュームの思想には後継者がいなかったので、後代への影響という点では、スミスの『道徳感情論』への流れが重要となるだろう。</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>キャロリン・コースマイヤー『美学　ジェンダーの視点から』三元社</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2010/06/post-53.html" />
<modified>2010-06-10T05:30:33Z</modified>
<issued>2010-06-03T03:36:31Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2010:/~ito//1.87</id>
<created>2010-06-03T03:36:31Z</created>
<summary type="text/plain"> 　最近、美学関係の本を読むことが多くなった。古典主義からロマン主義への移り変わ...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>books</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="bigaku_gender.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/photo/bigaku_gender.jpg" width="140" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;"/></span>

<p>　最近、美学関係の本を読むことが多くなった。古典主義からロマン主義への移り変わりに近代的な心性への変移があるのかなと思って、基礎知識をえようと思っているのだが、ロマン主義をとらえることが思いのほか難しくてなかなか進まない。このコースマイヤーの『美学』は、たまたま図書館の新刊棚にあって、目次に興味を引かれたのでとりあえず読んでみようと思い手にした。</p>

<p>　美学が学として誕生したのは、18世紀半ばだときまっている。というのも1750年のバウムガルデンの『美学』がその学の出発点だとされているからだ。</p>]]>
<![CDATA[<p>　だから、というのもなんだが、最近の美学関係の専門書には、「美とは何か」なんていう問いは発しない。学の成立根拠の問い直し、これが他分野以上に美学の切実な問題群になっている。この場合、18世紀の半ばに美学が必要とされた背景やその後の展開に焦点を合わせることが多い。</p>

<p>　18世紀に現れた思想には、快、趣味、崇高、天才、想像性といったものがあるが、それらはみな美学の成立に関係している。それ以前の古典主義的な美学は道徳性や神の概念を重視していたが、啓蒙思想が受け入れられるにつれ、美の概念は変容を迫られる。そして、啓蒙思想からの離脱や自律をめざす形で、ロマン主義的な思想が登場してくる。まさに美学は、そのまっただなかで成立していく。</p>

<p>　この本は、そうした学の成立以降を、副題にあるように、ジェンダーの視点から問い直すことを主眼としている。ジェンダーの話では、理性と感情のような二項対立概念が男女に割り振られ、およそ男が優位に立つようになっている、というか男を守るような立論が立てられるわけだが、美学にももちろんこの対立概念が生きている。</p>

<p>　たとえば、技芸が芸術概念に変わるとき、実用芸術や応用芸術や大衆娯楽ではない、つまりは実用的な価値ではなく美的価値だけが重視されるようになる。これによって家庭で行われるような様々な手仕事は美学から除外された。ロマン主義では天才概念があらわれたが、想像力と感受性にすぐれた天才といった考え方は男の概念とは矛盾する。だからか、それまでは想像力も感受性も女性側の概念である要素が強かったのに、概念の擁護のために女性からそうした要素を剥奪する。よって天才には女はいない。古典主義時代から優れた芸術家に女はほとんど登場しない。女は芸術から占め出されていた。</p>

<p>　少々残っている女性芸術家の作品についての著者のエピソードがおもしろかった。学生時代に、とてもいい感じのバロック時代の作品を鑑賞したときのこと。それは女性名の作品だったが、著者をそれを男なのに変な名前と思ったのだという。優れた芸術家に女はいないのは当然の考え方になっている。</p>

<p>　この本を読んで気づかされたのは美と崇高をめぐるバークとカントの思想のマスキュリニティだった。バークもカントも当時の新しい概念である崇高を持ち上げたのだが、著者の指摘するとおり崇高概念は明白に男性的な要素を持っている。この時代、悪評の一つは「女々しい」という批評だったという。</p>

<p>　本の流れとしては、味覚や身体感覚や女性アーティストの作品へとつながっていくが、あまり興味を引かなかった。このあたりは現代芸術のわかりにくさにもつながっているのだが、メディア・アートのわかりにくさにも同じ感じがあり、なんだかんだいってもまだ美学は美学を引きずっているんだなと思う。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>蛍の季節</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2010/05/post-52.html" />
<modified>2010-05-31T02:40:55Z</modified>
<issued>2010-05-31T02:01:24Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2010:/~ito//1.86</id>
<created>2010-05-31T02:01:24Z</created>
<summary type="text/plain"> 　今年も蛍がでてきましたよ。 　家に帰ったら、闇夜にほのかな点滅が。 　追っか...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>family</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<p><img alt="hotal2010_1.JPG" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/photo/hotal2010_1.JPG" width="228" height="128" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 20 10px 0px 0;"/><br />
　今年も蛍がでてきましたよ。</p>

<p>　家に帰ったら、闇夜にほのかな点滅が。</p>

<p>　追っかけてみるといましたよ。</p>

<p>　時期的にはちょっと早い気がします。</p>]]>
<![CDATA[<p><img alt="hotal2010_2.JPG" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/photo/hotal2010_2.JPG" width="228" height="168" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 20 10px 0px 10;"/><br />
　いつもは一匹が孤独にうろうろですが、家の横の小川にいくと、今年は元気に10匹ほどが集まってました。自宅でほたるを見られて贅沢な気分。なんかほっとするね。</p>

<p>　写真とっても逃げないし。捕まえて掌の中で光っているのを見ると、不思議な点滅がホントキレイ。</p>

<p>　もちろん短い成虫期間、一生懸命光ってほしいので逃がしてますよ。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title> Huawei E5830の覚え書き</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2010/05/huwei5830.html" />
<modified>2010-05-28T07:22:57Z</modified>
<issued>2010-05-19T03:11:56Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2010:/~ito//1.85</id>
<created>2010-05-19T03:11:56Z</created>
<summary type="text/plain">  ここのとこ立て続けに同様のものを国内でも発売する動きがあるので、 めんどくさ...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>MT</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="5830.JPG" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/photo/5830.JPG" width="120" height="209" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;"/></span>

<p> ここのとこ立て続けに同様のものを国内でも発売する動きがあるので、<br />
めんどくさいの嫌な人は、そっちを買えばいいかな。</p>

<p>Huawei 5830 は基本はソフトバンクとイーモバイルと同じもの。<br />
ただしsimフリーなので、どのキャリアでもOK。<br />
b-mobileがだすのもたぶんおなじようなもの。</p>

<p>現在（2010/05）、国内では、b-mobile Simのu300用かな。</p>

<p>以下、同種のルーターの一覧とhuawei E5830の設定、覚え書き。</p>]]>
<![CDATA[<p>-------------------------------------------------------------</p>

<p>b-mobileの<a href="http://www.bmobile.ne.jp/wifi/index.html">b-mobile wifi</a><br />
サイト内の販売では19,800円（たぶん実質はやすくなるだろうな）<br />
これにb-mobile Simを使えば、半年パックと一年パックなら使い放題月額2,500程度。</p>

<p>a2networkから<a href="http://www.berrymobile.jp/jp/mifi2372.html">MiFi 2372</a><br />
amazonだとい<a href="http://www.amazon.co.jp/MiFi-2372-%E3%83%A2%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%89%88%EF%BC%89%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF/dp/B003NQG7MS/ref=sr_1_6?ie=UTF8&s=electronics&qid=1275030270&sr=8-6">まは黒が25,800円</a>になっている、白は売り切れ。</p>

<p>docomoの<a href="http://buffalo.jp/products/new/2010/001141.html">ポータブルWi-Fi</a><br />
機械の価格は？、<br />
docomoと2年縛り回線契約すれば、月額1,000～4,410にプラスで計は～6000円ぐらい？</p>

<p>ソフトバンクの<a href="http://mb.softbank.jp/mb/data_com/product/pocketwifi/c01hw/index.html">Poket Wifi</a><br />
e-mobileの<a href="https://store.emobile.jp/DC/d25hw.php">Pocket Wifi</a></p>

<p>ソフトバンクなら、<br />
データ定額ボーナスパックで、月額1,000～4,980（たぶんこれから値下げするだろ）。<br />
e-mobileなら、機械が2年縛りで5,980と回線契約が月額1,400～5,380。</p>

<p>NTT東日本が「フレッツ光」の契約者を対象に、月500円で同様のものをレンタルするらしい。</p>

<p>Willcomの<a href="http://www.willcom-inc.com/ja/lineup/ws/024bf/index.html">どこでもWi-fi</a>もあります。</p>

<p>-------------------------------------------------------------</p>

<p>ここから設定</p>

<p>まずは付属のアダプターでしっかり充電しましょう。<br />
最初は12時間以上充電しろと注意書きがある。</p>

<p>中国版か英国版だが、<br />
コンセント形状が違うので変換コネクタが必要。</p>

<p>充電がおわったら、<br />
simを差してPCとUSB接続すると自動的にソフトがインストールされる。<br />
アイコンには「３ wifi manager」とあるが<br />
（ちょっと時間かかって、あれっと思うけど、しばらく待ちましょう）</p>

<p>そういえば、最初にスイッチ入れなきゃ立ち上がらなかったかも。<br />
on/offスイッチは、一番下のスイッチマークのあるところ。</p>

<p>ソフトが立ち上がると、まず新規のプロファイルネームの設定が出てくるので入れる。<br />
（アクセスポイントの設定ということですね）</p>

<p>ProfileName: b-mobile<br />
APN： dm.jplat.net<br />
ユーザー名： bmobile@u300<br />
パスワード： bmobile</p>

<p>基本はこれだけでOKのはず。</p>

<p>最初のプロファイルネームで失敗しても、あとで設定できる。<br />
その場合は、英の3UKキャリアが残ってるけど気にしないで、<br />
3 Wifi Manager　から<br />
Tool>Option>Profile Managementで、Newにして、同様の設定でdefaultに。</p>

<p>ちなみに、<br />
Tool>Option>Networkは、</p>

<p>TypeはWCDMA　prefferd、<br />
BandはAll Band、でいいでしょう。</p>

<p>ソフトが立ち上がったら、connect、となってるはずですのでクリックして接続。<br />
Advance Managementで各種設定ができますのでWifiの設定をしましょう。</p>

<p>Advance Manegement>WLAN Settings>Basic Settings></p>

<p>Name(SSID)は、3Wireless-Modem-××××と固有の数字がはいってるはず。<br />
端末側がWifiルーターをさがしにいくとき、このSSIDがでます。</p>

<p>Advance Manegement>WLAN Settings>Security Settings></p>

<p>WPA Pre-Shared-Keyにパスワードを入れましょう。</p>

<p>パッケージの中に初期パスワードが入ったカードがあります。<br />
or、バッテリーを外すと端末にパスワードを書いたシールがあります。</p>

<p>とりあえず以上をsave。</p>

<p>ちなみに、<br />
Advance Manegement>WLAN Settings>DHCP Settings　で　<br />
IP Adressを確認しておきましょう、</p>

<p>たぶん、192.168.1.1.</p>

<p>ファームウェアをアップデートしてれば（<a href="http://d.hatena.ne.jp/no61/20100207/1265499286">こちらで確認して</a>）、<br />
このアドレスを（USB接続じゃなくて）wifi接続状態から、ブラウザに打ち込むと動作状態の設定ができます。</p>

<p>login: Admin、pass: admin</p>

<p>ここでたぶん、iphoneやtouchなら、携帯用の設定画面になるので、<br />
下記の細かい設定をしたい場合、classicをクリックしてPC用の設定画面に</p>

<p>Advanced Settings>WLAN Basic Setting>Wifi Auto off、を　disabledに</p>

<p>Advanced Settings>Dial-up Settings>Connection Settings>Connection、を　On Demandに</p>

<p>以上で、最初、電源入れてから、さらにwifiをonにしなきゃいけなかったけど、<br />
電源入れるだけでwifiまでon、端末の要求によって3G/HSPA接続にいく便利な動作設定に。<br />
これなら電池も持つはずです。</p>

<p>視覚的には、<br />
スイッチ入れると、上二つと下のWが常時点灯、Mが点滅の状態。<br />
最初の写真の状態ですね。</p>

<p>でもねーやっぱ速度がいまいち。<br />
通信速度は300kbps超/300kbps超　ベストエフォートらしいけど<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="e5830_speed.JPG" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/phote/e5830_speed.JPG" width="240" height="427" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;"/></span></p>

<p>大容量バッテリーがあるらしい、<a href="http://www.unifirm.com/zaspx/productd.aspx?productno=1007">HLI-E5830XL</a><br />
Huawei E5830 Pocket Wi-Fi / 3900mAh, extended battery<br />
Mugen Powerの<a href="http://www.mugenpoweronline.com/product_info.php?products_id=737">オンラインストア</a>でも買えるはず。</p>

<p>vis-a-visで売ってるのは<a href="http://www.visavis.jp/shop/WebObjects/vv.woa/wa/dpp/4525443036622/">ポケットwifi用？</a>かもしれない。</p>

<p>追加：</p>

<p>つれが時間制限タイプのbmobile3gをもっていたので、<br />
sim抜いて使ってみた。設定は上記のID部分を変えるだけOK。</p>

<p>ユーザー名: bmobile@l3.jplat.net</p>

<p>どうもこっちの方が早い。<br />
スピードテストでは常時２倍ほど出る。</p>

<p>さらに追記：</p>

<p>b-mobileはwebアクセラレーターが設定できる</p>

<p>b-mobileSimの場合は</p>

<p>Proxy： mao.bmobile.ne.jp<br />
ポート番号： 32080</p>

<p>bmobile3gの場合は</p>

<p>Proxy： marion.bmobile.ne.jp<br />
ポート番号： 32080</p>

<p>上記のサーバーとポートを<br />
touchuの場合なら</p>

<p>設定>wi-fi>ワイヤレスネットワークを選択</p>

<p>3wireless-等を選択したら　＞　で詳細設定へ</p>

<p>HTTPプロキシを「手動」にすると</p>

<p>上記のサーバーとポートを入れる箇所が出てきます。</p>

<p>認証はオフで。</p>

<p>以上で、スピードテストの数字は上昇（300kbps超えも）、<br />
体感も良くなる感じです。</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>米沢泉『電車の中で化粧する女たち』ベスト新書、2006</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2007/10/post-51.html" />
<modified>2007-10-26T12:08:59Z</modified>
<issued>2007-10-26T07:07:03Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2007:/~ito//1.84</id>
<created>2007-10-26T07:07:03Z</created>
<summary type="text/plain"> 　新書にありがちだけど、この本も書名はキャッチ。実質はというサブタイトルの方に...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>books</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="denshanonakade_.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2007/10/26/denshanonakade_.jpg" width="170" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 20px 20px 0;"/></span>
　新書にありがちだけど、この本も書名はキャッチ。実質は<コスメフリークという「オタク」>というサブタイトルの方にある。ポーラなんかが化粧文化を研究したりしているけど、歴史的なものが多かったり、逆に思想的すぎたりで、しっくりしたものがなかった。でも、この本は今の日本で化粧にこだわるということの意味を捉えることに焦点を絞っていて、知らない世界を教えてくれた。いまや女性誌もわけわかんないほどいっぱいあるけど、コスメだけでひとつのジャンルになってるんだってことも初めて知ったよ。　]]>
<![CDATA[<p>　叶姉妹って存在がよくわかん。この本によると、どうも彼女らは化粧のお仕事なるものを生業としているらしい。男から見るとやりすぎで化け物じみているけど、コスメフリークはあのトータル・ビューティーの姿勢や生き方そのものに共感しているとのこと。叶姉妹は女性にうけてんだ。<br />
　媚びる女のイメージのはずの君島十和子の人気も？？だった。セレブだということはわかるのだが、それよりも彼女が受け入れられているのは主婦を謳うかたわら、化粧という趣味をとことん追求している姿勢なのだという。松田聖子が女性誌にでるのもよーわからんと思っていたけど、カリスマメイクさんとセットで誌面に登場しているんだと。もう年なのに、コスメの使い方次第で、ほら・・・ということなのだ。</p>

<p>　彼女たちが共感を得ているのは、自分自身に化粧をほどこし、自分自身を高めている、と思われているからだ。それは、もう女らしさを損なわないための女のたしなみレベルの言説ではない。女性誌は、賢い女ほどコスメをうまく使いこなせるものだと主張する。化粧もうまくこなせない女はもはや教養がないのも同じだという。<br />
　90年頃までは、服飾ファッションが自分を表現し高める手段として明確であったが、日本では消費が低迷した。ファッションブランドは戦略を変え、コスメを多様化する。高級ブランドはいうに及ばず多種多様なコスメがあふれでて、シーズン毎に変わるコスメアイテムはそのときに消費する旬のものになった。「限定品」もとても多い（今日の新聞のブランド化粧品の一面広告にもあったよ、「限定」って）。</p>

<p>　高いブランドものを揃えるようなファッションの着こなし方は、もうダメダメだと思われている。安くても高くても問題はコーディネート。だからユニクロで買って余ったお金はコスメブランドに向かっているのだという。自分をおおうものではなく、自分の皮膚こそが問題になった。男に誇示するわけではない。直接、自分が自分の皮膚に書き込み、自分を変えていく可能性こそが問題になる。そんな考え方は、９０年代の女子高生に広がっていて、ガングロでどれだけ大きな目が作れるかというような話にもなる。よく考えれば、使えるお金もそんなにない高校生が自分を表現する手段として、ちまたに大量にあふれ出したコスメにいち早く目を向けるのも当然だろう。</p>

<p>　現在のコスメ雑誌は、カリスマとフリークが事細かに解説をほどこす総合カタログになっているらしい。それを熱心に購読し、ひとつひとつを入念に試すフリークが大勢いるのだと。ネットが広まって、化粧品口コミサイトが人気だということは知っていたけど、それは肌に触れるものの成分や安全性なんかが中心なんだろうと思っていた。そうじゃなくて、試して使ってみて、それがどのように化粧品として効果的なのか、それが語られているのだと。</p>

<p>　この本で面白いのは、コスメフリークという存在のいる世界のイメージを紹介しているところだろう。彼女たちは、フリークで、化粧品の事細かな違いを語り合う「オタク」なのだ。他方で、コンテンツに萌える男たちがいる。このオタクたちは似たもの同士だ。確かにエヴァンゲリオンを創作した庵野秀明と現在売れっ子で美容マンガも手がけている安野モヨコのカップルは似たもの同士だ。その同類性を、この本では「内面の不在」と捉えている。その結論はちょっと留保しておきたいけど、確かに似たような傾向はあるよ。</p>

<p>　自分の行動の動機にとっても正直な中村うさぎも自分にどんどん手を入れている。彼女の場合は整形だけど、コスメフリークが行き着く先は、中村うさぎと同じだろう。彼女は目指すべき自己実現に果敢に取り組むことをネタにしてきた。少なくとも、コスメは自己実現アイテムの必修科目になってきている。これは男にも広がってくるんだろうな。その動向を見ていくなかで注目すべきなのは、おそらくビューティー・ジャーナリストと呼ばれている人たちだろう。男性ビューティ・ジャーナリストがもてはやされるようになったとき、「オタク」たちは何処に向かうんだろうか。<br />
　</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>樋口康彦『「準」ひきこ森』講談社+α新書、2006</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2006/12/2006.html" />
<modified>2006-12-13T13:52:23Z</modified>
<issued>2006-12-13T11:32:51Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2006:/~ito//1.82</id>
<created>2006-12-13T11:32:51Z</created>
<summary type="text/plain">　　準ひきこ森って、何か変なタイトルだけど、要するに「ひきこもり」はしてなくて社...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>books</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<p><img alt="junhikikomori_.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/junhikikomori_.jpg" width="150" align="left"/>　　準ひきこ森って、何か変なタイトルだけど、要するに「ひきこもり」はしてなくて社会生活も送っているけど実質的にはひきこもりと変わらない、という人たちの世界をたとえた造語。「誰もいない森の中で膝を抱えて座っている孤独な青年。孤独地獄の中で、それでも誰かを待っている孤独な人」(p.12)のこと。</p>

<p>　そうだよ、いるんだよ、確かに。なんだかパッとしなくて、話しても楽しくなくて、見た目もさえないようなやつ。こうした人たち、いままでカテゴライズされていなかったような気がする。この本では、いるんだけど見えていなかったそんな若者たちを可視化しようする。そしていったん可視化されると、なんだか知らないけどおそろしくなってくる。</p>]]>
<![CDATA[<p>　おそろしい、というのは語弊があるかもしれない。でも、そう感じるのは、このカテゴリーに当てはまる人がいっぱいいることが突然に目の前にあふれてくるからだ。</p>

<p>　この本の著者はいまは大学教員で、その前にもいろいろと教職についていたらしいから、教室に座っていたり構内にいる若者たちを大勢見てきた。非常勤で教えていたりすると、学生と対峙するのはその時間だけだから、もしへんなやつが授業を受けていても正直言って気にもとめない。けれども大学教員なんかになると、１人１人の学生がもっとよくみえてくる。気にもとめなかったへんなやつが、ちょっと気になる存在になる。なぜかというと、そいつはいつもいるからだ。教室の前の方にいつもいる。毎日大学に来て、授業には欠かさず出席して、ただまっすぐ家に帰る。これが準ひきこもりの特徴の一つらしい。</p>

<p>　中学や高校だとクラスの中の暗いやつがいて、あんまり話しはしないけど、クラスメートの１人だとは思っている。だからそいつは確かにそこに「いた」。でも大学の授業なんかだと、同じ顔と毎日つきあうようなことはほぼない（文系だとね）。だから、あのときに「いた」クラスメートは、いるんだけど「いない」んだ。学校にこないんじゃない。いるけどいないんだ。まったく気にもとめない。そいつからしてみれば、誰からも気にもとめられない、ということになる。</p>

<p>　私は大学に入ったら大学にはいかなくてもいいんだと思っていた。だからあんまりいかなかった。いったのは必要最低限だ。それよりも大学の外でいろんなことに手を染めている方が楽しかった（大学のゼミも楽しかったけどね）。でもいまの学生は、どうも大学によくいっている。だから学生はある程度あふれている。でも活気がない。なぜだろう、といつも思っていた。もしかしたら大学にあふれている何割かが「準ひきこもり」だから！　しかもいまの学生は、いわれるがままのことをするのがいいらしい。教室の席も決められているほうがいいらしい、と同僚がいっていた。自主的になにかをするよりも、機械的に単純作業をこなすほうがいい、というか、それしかできない層が確かにいる。成績は別にわるくない。単純作業を与えられればこなすからだ。これも準ひきこもりの特徴らしい。</p>

<p>　出席を重視してください、という学生がいる。わたしはいやだ。出席していても話を聞いてなくて、試験も全然できない。でも出席しているから単位がもらえる。そんな高校みたいなシステムを大学に期待しないでほしいと思う。それよりも、全然出席していないのに、どっかから情報を集めてきて、こそくに最低限のことをこなして、一夜漬けでも試験はある程度できる。そのほうがいい。だって、同じ成果なら、授業に出ている時間を別のことに使えるし、遊ぶ時間も多くなるだろ。でも、どうもそんなやつは少なくなってきていて、前者の方が多くなっている。なぜかというと、あまった時間ですることなんて別にないから。</p>

<p>　だから、黙々と学校に来て、１人で授業に出て、１人でご飯を食べて、１人で家に帰って、部屋で遊んでねる。次の日もまた同じこのと繰り返し。これが準ひきこもり。そうかもなあ。</p>

<p>　かわいそうで（と思うのは傲慢なのかもしれないが）、そんな感じのやつがいたら、ちょっとでも救いの手をさしのべてあげたくなる。人は誰でも傷つくのがこわい。自分を守ろうとしすぎると、人に触れないようになっていく。しばらく人と話をしていないと、気が付くと、なんだかうまくしゃべれなくなっている。人とうまく間合いがとれなくなってくる。そうすると、また人に触れないようにしてしまう。</p>

<p>　だから実際には、あまり接触がないので、救いの手をさしのべる機会がない。わたしのゼミは、さいわいなことに希望者が定員を上回ることが多くて、いつも面接をしている。というかゼミの上級生が、新ゼミ生の選考をするようにしているのだが、結局はハキハキした人とのやりとりがある程度できるのが合格する。選考風景を見ていて、どんよりした空気になっている場合はもうダメだ。そいつは他のゼミにいってもダメなんだろうな、というか、こいつは大ジョブなのか、といつも思う。むしろ、そういった学生を拾ってやらなくてはいけないのかも、と思ったりもする。だって、この先ずっとそうなんだろうから、友達もできないし就職もできないさそう、だし。</p>

<p>　この本を読んで、そんなどんよりした空気をかもしだしているやつこそ「準ひきこもり」だとはっきりと理解できる。これからの大学は、まだまだそんな学生が増えてくるだろう。そんなやつにとってもは、勉強することなんか全然大事じゃない。友達をつくることの方が大事だ。それが自然にできるようにしてやらないと。。。うーん、どうすればいいのかなあ。</p>

<p>　なんだか、だらだらと書いているが、もうちょっと続けよう。この本の中には「準ひきこもり」の心象風景を描いた奇妙な詩がでてくる。とくに性的な想像の心象風景が奇妙だった。なぜかというと、実際の対象者に話を聞いてもそんな性的な妄想をそう人に語らないだろう、と思ってしまったからで、もしかして、と思ったのもこの辺りからだ。もしかして、というのは著者自身が準ひきこもりか、で、なんだかやっぱりという思いもあった。将棋やボクシングが好きって、それってちょっと、とも思う。</p>

<p>　準ひきこもりは、大学卒でも、というか、大学卒だからこそ、まともな就職などできやしない。だって誰もそいつを選ばないから。では、どんな仕事を目指せばいいのだろうか。著者によると、医者、法律家、公認会計士、大学教授、公務員。これまで可視化されていなかった準ひきこもりは実際にはどうしているかというと、やはり一方では、救い出せないフリーターとニートだろう。しかし他方では、書類作成業務と公務員、それに大学教員になっている確率が高い。そう思ってみると、いるよいっぱい。ハア(-.-)。この本の著者も大学院にいって、教員になっているわけだし、どうもいろいろと出会っている確率が高い。<br />
　大学院の世界は、皆が優しい、のかもしれない。</p>

<p>　この本の内容については、あんまり書かなかったけど、興味を持った人は読むべきだと思う。自分のことなら身につまされるし、そうじゃないなら優しくなれる。でも優しくなっても「準ひきこもり」には通じないからもしれない。<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/customer-reviews/4062724057/ref=cm_cr_dp_2_1/250-7523431-6908212?ie=UTF8&customer-reviews.sort%5Fby=-SubmissionDate&n=465392">amazonの書評でこの本</a>を批判しているのは、どちらかというと当てはまっている側の人のような気もするからだ。そうならば一筋縄ではいかない。</p>

<p> 最後に、この本では書かれていない「準ひきこもり」の特徴を勝手に推察すると、彼らはスポーツができないのではないだろうか。成績は普通でスポーツができない人。スポーツは人と関わり合うとてもいいきっかけだし、持続する機会だし、何かを共有できる対象でもある。女たちは人との関わりをうまくすることを早く覚える。それが生きていくすべだからだろう。「準ひきこもり」は男が多い。もともと、人との関わりを積極的にしようとはしない彼らは、それを円滑にこなすことを学ぶスポーツをする機会があまりなかったのではないだろうか。極端に言えば、勉強ができなくてもスポーツができれば異性にはもてるし、社交的になれる。勉強ができれば人生には勝てる。でも学生時代、何も誇れることがなかった人たちは・・・</p>

<p>　とすると一つの糸口が見えてくるような気もする。勉強でもスポーツでもない得意で好きなこと、自慢できることを見つけること。んー、音楽なんかがその例かもしれない。誰もがその才能を認め、一緒に楽しめることで、しかもどこかが自分の表現になっること、そんな趣味がひとつでもあれば、その人は「準ひきこもり」にはならないかもしれない。別にアニメやフィギアやアイドルだっていい。それがスポーツの場合と同じように他者と円滑に交わる機会となればいいんだ。アニメなんかにも、ライブハウスみたいな仕組みがあればいいんだけどな。</p>

<p>　そんな話になってくると、「準ひきこもり」は政治に関心があるんだろうか、こりゃまったくないんだろうな、とも思ったりもする。自分のことでせいいっぱいで、それから逃れる手段がささいな趣味ならば、さらに政治なんでどうでもいい。どっちに転んでも、そんな人が増えるわけだ。<br />
　　</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>欲しい本</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2006/07/post-50.html" />
<modified>2007-01-30T06:18:47Z</modified>
<issued>2006-07-21T07:23:42Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2006:/~ito//1.81</id>
<created>2006-07-21T07:23:42Z</created>
<summary type="text/plain"></summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>wants</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">

<![CDATA[<p>小野芳朗『「清潔」の近代―「衛生唱歌」から「抗菌グッズ」へ 』講談社選書メチエ、1997<br />
ジュリア・クセルゴン『自由・平等・清潔―入浴の社会史』河出書房新社、1992<br />
スーエレン・ホイ『清潔文化の誕生』紀伊国屋書店、1999<br />
ジョルジュ・ヴィガレロ『清潔(きれい)になる「私」―身体管理の文化誌』同文館出版、1994</p>

<p><strike>大島一彦『ジェイン・オースティン―「世界一平凡な大作家」の肖像』中公新書、1997</strike><br />
ジェイン・オースティン『ジェイン・オースティンの手紙』岩波文庫、2004<br />
エドワード・ショーター『近代家族の形成』昭和堂、1984<br />
<strike>ローレンス・ストーン『家族・性・結婚の社会史―1500年‐1800年のイギリス』勁草書房、1991</strike><br />
アラン・マクファーレン『再生産の歴史人類学―1300~1840年英国の恋愛・結婚・家族戦略』勁草書房、1999<br />
アラン・マクファーレン『イギリスと日本―マルサスの罠から近代への跳躍』新曜社、2001<br />
ジョン・ギリス『結婚観の歴史人類学―近代イギリス・１６００年～現代』勁草書房、2006</p>

<p>アンディ・ベル『論争のなかの心理学―どこまで科学たりうるか』新曜社、2006<br />
フィリップ・バニアード『心理学への異議―誰による、誰のための研究か』新曜社、2005<br />
村上 宣寛『「心理テスト」はウソでした。 受けたみんなが馬鹿を見た』日経BP社、2005<br />
シャーリーン・ヘス＝バイバー 『誰が摂食障害をつくるのか―女性の身体イメージとからだビジネス』新曜社、2005<br />
スチュアート・A. ヴァイス『人はなぜ迷信を信じるのか―思いこみの心理学』朝日新聞社、1999<br />
ジャネット・オッペンハイム『英国心霊主義の抬頭―ヴィクトリア・エドワード朝時代の社会精神史』工作舎、1992</p>

<p>エイブラムズ『自然と超自然―ロマン主義理念の形成』平凡社、1993<br />
エイブラムズ『鏡とランプ』<br />
<strike>フリートマル・アーペル『天への憧れ―ロマン主義、クレー、リルケ、ベンヤミンにおける天使』法政大学出版局、2005</strike><br />
水林章『公衆の誕生、文学の出現―ルソー的経験と現代』みすず書房、2003<br />
バビット「ルソオとロマンティシズム」『世界大思想全集84』春秋社、1933<br />
<strike>ヒューム「趣味の基準について」浜下訳 『現代思想』16(11)号、1988</strike><br />
<strike>ディドロ『絵画について』岩波文庫、2005</strike><br />
<strike>アイザイア・バーリン『バーリン ロマン主義講義』岩波書店、2000</strike><br />
ジャン・スタロビンスキー『自由の創出―十八世紀の芸術と思想』白水社、1999<br />
マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔－ロマンティック・アゴニー』国書刊行会、1987<br />
カール・ハインツ ボーラー『ロマン派の手紙―美的主観性の成立』法政大学出版局、2000</p>

<p><strike>ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』ちくま学芸文庫、2001</strike><br />
<strike>谷川渥『美学の逆説』ちくま学芸文庫、2003</strike><br />
<strike>渡邊二郎『芸術の哲学』ちくま学芸文庫、1998</strike></p>

<p>ケヴィン・マイケル ドーク『日本浪曼派とナショナリズム』柏書房、1999<br />
<strike>橋川文三『日本浪曼派批判序説』講談社文芸文庫、1988</strike><br />
保田与重郎『保田与重郎文芸論集』講談社文芸文庫、1999<br />
山田広昭『三点確保―ロマン主義とナショナリズム』新曜社、2001</p>

<p><strike>今橋映子『異都憧憬 日本人のパリ』平凡社ライブラリー、2001</strike><br />
田中まり『世紀末ウィーンのボヘミアン』同学社、1997<br />
<strike>アーサー・ランサム『アーサー・ランサム ロンドンのボヘミアン』白水社、2000</strike><br />
上山安敏『世紀末ドイツの若者』講談社学術文庫1136、1994<br />
<strike>山田勝『世紀末の群像－イエロー・ブックと世紀末風俗－』創元社、1987</strike><br />
<strike>山田勝『孤高のダンディズム シャーロック・ホームズの世紀末』早川書房、1991</strike></p>

<p>マリオ・プラーツ『ムネモシュネ―文学と視覚芸術との間の平行現象』ありな書房、1999<br />
林田敏子『イギリス近代警察の誕生―ヴィクトリア朝ボビーの社会史』昭和堂、2002<br />
<strike>アダム・スミス『道徳情操論』上下、未来社、1969</strike></p>

<p>ハルトムート・ベーメ『デューラー［メレンコリアⅠ］解釈の迷宮』三元社、<br />
ヴェルナー・ブッシュ『ライト《空気ポンプの実験》　科学と宗教の神聖同盟』三元社、<br />
高橋晴子『近代日本の身装文化　「身体と装い」の文化変容』三元社、2005<br />
<strike>本城靖久『馬車の文化史』講談社現代新書、1993</strike><br />
キース ブラッドシャー『SUVが世界を轢きつぶす―世界一危険なクルマが売れるわけ』築地書館、2004</p>

<p><strike>Dror Wahrman, The Making of the Modern Self: Identity And Culture in Eighteenth-century England, Yale Univ Pr, 2006.</strike><br />
<strike>Gregory J. Shepherd (Eds.), Communication as ...: Perspectives on Theory, Sage, 2005.</strike><br />
Elizabeth Wilson, Bohemians: The Glamorous Outcasts,Rutgers Univ Press, 2001.<br />
Laren Stover, Bohemian Manifesto: A Field Guide to Living on the Edge, Bulfinch, 2004.<br />
G. J. Barker-Benfield, The Culture of Sensibility: Sex and Society in Eighteenth-Century Britain, Univ of Chicago Press, 1996.<br />
Jessica Riskin , Science in the Age of Sensibility: The Sentimental Empiricists of the French Enlightenment, Univ of Chicago Press, 2002.<br />
Louis I. Bredvold, Natural History of Sensibility, Wayne State Univ Pr, 1962.<br />
David Sterritt, Screening the Beats: Media Culture and the Beat Sensibility, Southern Illinois Univ Press, 2004<br />
<strike>ノエル・R・フィッチ『シルヴィア・ビーチと失われた世代―1920,30年代のパリ文学風景』上下、 開文社出版 、1986</strike><br />
ハンフリー・カーペンター『失われた世代、パリの日々―一九二〇年代の芸術家たち』平凡社、199<br />
宮田恭子『ジョイスのパリ時代―『フィネガンズ・ウェイク』と女性たち』みすず書房、2006</p>

<p>倉田善弘『芝居小屋と寄席の近代―「遊芸」から「文化」へ』岩波書店、2006<br />
<strike>ビリー諸川『昭和浪漫ロカビリー―聞き書き:ジャズ喫茶からウエスタン・カーニバルへ 』平凡社、2005</strike><br />
榎本泰子『上海オ－ケストラ物語 西洋人音楽家たちの夢』春秋社、2006<br />
ヨコタ・村上孝之『マンガは欲望する』筑摩書房、2006<br />
<strike>堀淵清治『萌えるアメリカ』日経BP、2006</strike><br />
<strike>町山智浩編訳『オタク・イン・USA』大田出版、2006</strike><br />
<strike>小倉孝誠『“女らしさ”の文化史―性・モード・風俗』中公文庫って！、2006</strike></p>

<p><strike>芹沢一也『狂気と犯罪―なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』講談社+α新書、2005</strike><br />
<strike>森涼子『敬虔者たちと「自意識」の覚醒―近世ドイツ宗教運動のミクロ・ヒストリア』現代書館、2006</strike><br />
中里巧『キルケゴールとその思想風土―北欧ロマンティークと敬虔主義』創元社、1994<br />
<strike>ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』上下、河出文庫っておもいきったな、2006</strike><br />
<strike>ロバート・ハリス『ポンペイの四日間』早川文庫NV、2006</strike></p>

<p>クリスティン・ヒューズ『十九世紀イギリスの日常生活』松柏社、1999<br />
メイヒュー『ロンドン路地裏の生活誌―ヴィクトリア時代』上下、原書房、1990<br />
<strike>メルシエ『十八世紀パリ生活誌 : タブロー・ド・パリ』上下、岩波文庫、1989</strike><br />
<strike>ドニプロ『崇高なる者―19世紀パリ民衆生活誌』岩波文庫、1990</strike><br />
アンヌ マルタン=フュジエ『優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48』新評論、2001</p>

<p>箕輪成男『紙と羊皮紙・写本の社会史』出版ニュース社、2004<br />
箕輪成男『中世ヨーロッパの書物―修道院出版の九〇〇年』出版ニュース社、2006<br />
内藤裕史『中世彩飾写本の世界』美術出版社、2004<br />
ピエール‐マルク=ドゥ ビアシ『紙の歴史―文明の礎の二千年』創元社、2006<br />
スタン・ナイト『西洋書体の歴史―古典時代からルネサンスへ』慶應義塾大学出版会、2001<br />
エドワード・ジョンストン『書字法・装飾法・文字造形』朗文堂 、2005<br />
</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』角川oneテーマ21、2005</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2006/02/one212005.html" />
<modified>2006-09-29T11:12:35Z</modified>
<issued>2006-02-08T05:31:12Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2006:/~ito//1.80</id>
<created>2006-02-08T05:31:12Z</created>
<summary type="text/plain"> 　いま政府はコンテンツ産業をバックアップしようと躍起になっている。その理由には...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>books</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<p><img alt="japanimataionhanaze.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/japanimataionhanaze.jpg" width="100" height="160" align="right" /><br />
　いま政府はコンテンツ産業をバックアップしようと躍起になっている。その理由には、メディアのコンテンツが海外と競争できる産業の一つと見なされるようになってきたこと、産業構造と人口減少が変化する中で観光産業を推進しようとしていること、世界の中での日本のイメージを発信できる素材を求めていることなどが考えられるだろう。でもこの動きには、かなり危ういものが含まれている。この危うさを認識しているかどうかで今後の方向性がかなり変わってくるだろう。</p>

<p>　そうしたなかで大塚英志の本書の試みは、この危うさへの警告をしたかなり素早い対応であるといえる。今後のジャパニメーション賞賛の危うさについての議論は、この本を抜きには語れないだろう。たぶん。<br clear="all"></p>]]>
<![CDATA[<p>　この本は前半と後半に分かれていて、タイトル通りの内容は後半に語られている。前半は、主にマンガの「伝統」についてと日本のマンガの内容的な深化について。</p>

<p>　　伝統の問題は、いわゆる「創られた伝統」論議。マンガは日本古来のものでもない、ましてや日本固有のものではない。しかしマンガの歴史が語られるとき、かなりの歴史をさかのぼって日本独自の文化だと語られることが多い。特に海外からマンガが評価されるときには、そうした言説がいつもつきまとっている。これは一種のオリエンタリズム・異国趣味だといえるだろう。マンガは日本文化特殊論と結びつけられやすいわけだ。</p>

<p>　けれども手塚治虫が最初に目指したのはあくまでもディズニーの真似。しかも手塚が見ていたディズニーものは偽物のディズニー。つまり模倣の模倣をしていただけ。そんな現実を見つめることなくマンガを語るのはやっぱりおかしいだろう。ここで大塚は、いわばマンガの脱構築を試みているといえるかも。</p>

<p>　でもまあマンガは、他地域での同種の試みに比べても物語作品としても空間表現としても小説のように深化している。それは主に少女マンガにおける内面重視の作品においてだが。この点はその当時の社会的な背景を抜きにしては論じることはできない。戦前戦中戦後の状況と経験はやはりマンガにも影響を与えている。けれどもこれは、昨今の萌えの表現とはまた別の問題となる。結局、マンガ批評も小説批評のようにテクストのみでは語ることができない。それは受容の問題に関しても同様。</p>

<p>　そして国策としてのコンテンツ産業政策は、そんな批評の話とはあまり関係なく経済的な側面だけを重視する。ありがちだけど、とても嫌な話だ。大塚は、そんなこといってもコンテンツ産業の産業規模はたかがしれていると指摘している。それはその通りだろう。</p>

<p>　けれども、コンテンツ産業をバックアップすることには、世界のなかでの日本という地域の地位の向上の役割が担わされている。アメリカは自国の文化を映画で知らしめているのだし、フランスはそれを制限し独自のコンテンツを制作することでフランスらしさの牙城を保つ努力をしている。インドは圧倒的な自国生産消費をしており、文化的な独自性を発信している。近頃では韓国の躍進がめざましいが、それもコンテンツ産業の保護と輸出外交をしているからだ（いまアメリカから規制緩和を求められているらしい）。<br />
　<br />
　確かにこの点にかんしては、日本は立ち後れているだろう。なぜ立ち後れたのか。それは日本が工業技術の輸出ばかりを国策としていて、文化の政治的力を甘く見ていたからだ。だからヨーロッパで日本は、感情表現の少ない人びとの住むテクノの無機質な国と思われていたりもする（たぶんこれはYMOが関係しているんじゃないかとおもうけど）。</p>

<p>　ということは、アメリカなんかでジャパニメーションが「Hな文化」やコスプレのサブカルチャーとして知られていることは、国策としては抹殺したいという方向にいってしまう可能性が大。しかし日本アニメは性に結びつけられた上で受け入れられているのも確かだ。<br />
　<br />
　だから国策としてのコンテンツ産業の推進には、表現の規制やマンガというサブカルチャーの方向性の誘導が必然となる。大塚は、自身も表現者の一人として、そうした圧力をこうむることに嫌悪観を感じているのだろう。マンガは大塚がいっているほど自然発生的に研ぎ澄まされてきたわけではないとは思うが、猥雑で適当でなんでもありのなかで成長し、それがある程度受け入れられてきたものだとはいえる。それが国といった権力によって変質させられれば、やはりこれまでのマンガとこれからのマンガは違ったものになる。大塚の言い方いえば、「ほっといてくれ」というわけだ。</p>

<p>　そんな国策の方向は、大学教育にも及び、文科省は観光やコンテンツ政策を扱う人材教育のための教育機関を増やそうとしている。そして実際に増える。前からやっていた京都精華大学も拡充するし、東大、東京芸大、立教、立命館といった有名どころもやり始める。</p>

<p>参考：<a href="http://animeanime.jp/biz/archives/2004/10/post_65.html">アニメ！アニメ！というサイトの２年前の情報</a>でもかなりある。</p>

<p>　別に大学教育をやるのが悪いわけではない。むしろ専門学校で技術だけを学ぶよりはいいとは思う。でも大学という名の専門学校だったり、儲けるためのコンテンツ・プロデュースや印象的な広告操作とかだけをやるのなら、やめたほうがいいし、、どうせそんなことは学べない。<br />
　それよりも、しっかりと社会教育をやって欲しい。それは表現する者としての倫理を学ぶということになってしまうのかもしれない。ジェンダーや差別、権力、ナショナリズムやステレオタイプ、そんなことの意味もわからずに、大学で学びましたなんてことにはなって欲しくないと切に思う。</p>

<p>　そんな大学の専門に進みたいと思う人は、ほかの大学生よりはいくぶんはやる気もあるし熱心なのではないだろうか。だからこそ、しっかりと勉強してから巣立って欲しい。ということは逆に言えば、そうした専門教育を担う大学は、人材をきちんとそろえなくてはならない。学生の方もしっかりと吟味して選んで欲しい。ただの技術だけを教えるのでもなく、有名な漫画家やプロデューサーを客寄せパンダにするのでもなく、学んだ学生達が世に出ていくことで、コンテンツの表現の様相が劇的に変わったり、メディア・リテラシーが高まったりするようになることが必要だろう。そうじゃないと、国策に使われるただの労働者育成学科になってしまうよ。</p>

<p><img alt="mohousarerunihon.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/mohousarerunihon.jpg" width="100" height="160" align="left" />　当の大塚英志も、大学教授になるということだ。たぶん自分でも肝に銘じているんだとは思う。彼のような社会批評ができる人が、この界隈を引っ張っていければまだいいのではないだろうか。ちょっと期待もしつつ、でも先行き不安な感じだよなやっぱり。</p>

<p>　だって、アニメ学科とかの学生は、浜野保樹『模倣される日本』祥伝社新書(2005)を読んで、ウンウン頷いていそうだから。いいよこれは読まなくて。浜野保樹はどう見ても政治家か何かに頼まれて書いているようにしか読めん。<br clear="all"></p>

<p><img alt="americadenihonnno.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/americadenihonnno.jpg" width="100" height="160" align="right" /><br />
　それよりも草薙聡志、『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店(2003)を読むことをお勧めする、コンテンツは受容の場では、切り刻まれて再構成される。この本を読めば、そんな実例が、また制作現場の姿が豊富な実例とともに理解できるだろう。</p>

<p><img alt="kaijuudukaitoshounen.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/kaijuudukaitoshounen.jpg" width="100" height="160" align="right"/><br />
　それと切通理作『怪獣使いと少年－ウルトラマンの作家たち』宝島社文庫(2000)もよんだほうがいい。子ども向けの作品の中にも時代背景と作家の思いが色濃く残されている。テレビは一瞬で消費されていく商品群の羅列であったが、これからのコンテンツは何度もどこでも繰り返し消費可能なものになる。そこで何を表現するのかは、何時の時代でも作り手しだいであるし、そこから何を受けとるかはこれからのメディア・リテラシーしだい。<br clear="all"></p>

<p>　まあクール・ジャパンの面ばかりに目を向けないで、国策としてお金が出せるのならアニメーターの労働条件をよくしてあげて。最近のテレビアニメでも、制作費の安い韓国に外注していて、テロップに日本人なんか出てこんし。<br />
</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>劇団四季「美女と野獣」</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2006/02/post-29.html" />
<modified>2006-09-29T11:12:54Z</modified>
<issued>2006-02-06T10:59:29Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2006:/~ito//1.79</id>
<created>2006-02-06T10:59:29Z</created>
<summary type="text/plain"> 　もうだいぶ前ですのことなりましたが、昨年のクリスマスに見に行ってきました。子...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>seeing</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<p><img alt="bijotoyajuu.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/bijotoyajuu.jpg" width="145" height="150" align="left"/><br />
　もうだいぶ前ですのことなりましたが、昨年のクリスマスに見に行ってきました。子どもがショッピングセンターのクジで当ててきたやつだけど。ちゃんと買うとかなりの高額チケットだ。<br />
　劇団四季のミュージカルなんて見に行ったことないから半分は興味津々だったけど、半分は題材に疑問。</p>

<p>劇団四季による紹介はこちら→<a href="http://www.shiki.gr.jp/applause/bb/">http://www.shiki.gr.jp/applause/bb/</a></p>

<p>　公演は福岡シティ劇場。博多ではいま流行のキャナルシティの劇場です。駅からちょっと歩くけど、途中のアーケード商店街がいい感じでした。<br clear="all" /></p>]]>
<![CDATA[<p><img alt="zenzai.JPG" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/zenzai.JPG" width="120" height="150" align="right"/>　商店街を歩いていると、露天のぜんざいやさんを発見。寒い日だったので、さっそくご賞味。たくわんがいいでしょ（ちなみに私の田舎の鳥取では、これがお雑煮でもある）。</p>

<p>　席は１０列目で前が通路になっていたので視界も良好、いい席でした。ステージが始まると、パワーに圧倒。さすが劇団四季だけあって、なんか衣装とか小道具とかががすごくちゃんとしてて、金かけてるんだろうなーと。ミュージカルの見せ場であろう、みんなが歌って踊ってという場面もエンターテイメントばっちりで良かったです。</p>

<p>　でもでもやっぱり題材がいまいち。もともとディズニーなんだから話の筋が簡単なのに、それが舞台になっているから誇張がはなはだしい。野獣は、野性味あふれる王子様という本当は理想の男のはずなのに、村の美男子狩人との対比で弱々しいし、美女もとても強い女みたいになっていた。<br />
　男と女の表現の仕方も、男が女を性の対象として強引に扱うみたいな描き方が当然のようにされていて、もうちょっと考えろよ、という感じ。<br />
　それと主役の野獣の役の人の歌は、あんまりいいと思わなかったなあ。<br clear="all" /></p>

<p><img alt="bijotoyajuu-t.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/bijotoyajuu-t.jpg" width="150" height="110" align="left" />　見たのがクリスマス公演だったので、舞台の終わりにホワイトクリスマスの歌があって上からは雪が降ってきてました。それは雰囲気ばっちり。<br />
　でもこんな子ども向けの内容でチケット高いと誰をターゲットにしてるかよくわかんない。また見たいなとは思えなかったミュージカル体験でしたし、劇団四季の人には表現の社会性をもちっっと考えて欲しいと思ったしだいです。<br clear="all" /><br />
</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>欲しい本</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2006/01/post-49.html" />
<modified>2006-09-29T11:14:54Z</modified>
<issued>2006-01-30T07:03:03Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2006:/~ito//1.78</id>
<created>2006-01-30T07:03:03Z</created>
<summary type="text/plain"></summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>wants</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">

<![CDATA[<p>小川博司・小田原敏・粟谷佳司・小泉恭子・葉口英子・増田聡<br />
　『メディア時代の広告と音楽―変容するＣＭと音楽化社会』新曜社、2005<br />
本村凌二<s>『ポンペイ・グラフティ』中公新書</s><br />
　『優雅でみだらなポンペイ―古代ローマ人とグラフィティの世界』講談社、2004<br />
<s>マーティン・バナール<br />
　『黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ〈2〉考古学と文書にみる証拠』上下巻、藤原書店2005</s><br />
マイケル・S‐Y. チウェ<br />
　『儀式は何の役に立つか―ゲーム理論のレッスン』新曜社、2003<br />
宮田加久子<br />
　『きずなをつなぐメディア-ネット時代の社会関係資本』NTT出版、2005<br />
和田伸一郎<br />
　『メディアと倫理－画面は慈悲なき世界を救済できるか』NTT出版、2006<br />
スコット・ラッシュ<br />
　『情報批判論－情報社会における批判理論は可能か』NTT出版、2006<br />
</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>浜野保樹『メディアの世紀－アメリカ神話の創造者たち』岩波書店、1991</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2006/01/1991.html" />
<modified>2006-09-29T11:15:07Z</modified>
<issued>2006-01-27T09:53:59Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2006:/~ito//1.69</id>
<created>2006-01-27T09:53:59Z</created>
<summary type="text/plain">　この本には、アメリカの1930年代を中心にしたマス・メディアをめぐる様々なトピ...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>books</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<p><img alt="medianoseiki.JPG" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/medianoseiki.JPG" width="120" height="160" align="right" />　この本には、アメリカの1930年代を中心にしたマス・メディアをめぐる様々なトピックが目白押し。アメリカの1920年代はものすごい好景気の時代で、アメリカンライフはこの時代に登場したといっていい。けれども1930年代は大不況の時代。つまり２０年代はバブル期で、土地は上がり続け、株価は下降せずだった。みんなが投資した。そして、そのツケは３０年代に一気にくる。そして４０年前後は、ファシズムと共産主義と戦争。そんな流動的な時代にマス・メディアは大変貌をとげる。<br clear="all"></p>]]>
<![CDATA[<p>　こうした時代の一つの軸となるのが空の英雄、いやアメリカの英雄、リンドバーグ。リンドバーグは、1927年にワシントンーパリ間の単独飛行を成功させた人物だ。アメリカは熱狂した。リンドバーグのニュースに熱狂した。大統領になろうかというぐらいの人気者だった。しかしリンドバーグは悲劇のヒーローでもある。1932年に子どもを誘拐され身代金を奪われた。そして子どもは帰ってこなかった。<br />
　この時代、語りぐさになっているのはピュリツァーとハーストの新聞拡張の争い。いわゆるイエロー・ジャーナリズムだ。新聞はセンショーナリズムとのぞき趣味で、大衆という新しい読者を獲得していく。新聞の文体は感想文のようになり思う感ずるといった言葉はないにしても、事実を正確に伝えることよりも、英雄話と醜聞と憎悪をかき立てることに邁進した（いつもだけどね）。リンドバーグは成功と悲劇の注目の的だった。</p>

<p>　ハーストはスペイン戦争をけしかけて実現させた、ともいわれる。不況の中の大統領だったフーヴァーは、当然だが人気がなかった。それは彼が人々の前に現れずに仕事ばかりしていたからでもあった。次の大統領ローズヴェルトは、記者会見を頻繁に開き、記者とかかわり、ラジオという新しいメディアを活用した。自分だけが情報源になることによって逆に情報を操作した。彼のラジオ放送は炉端談義といわれ人々に親密感を与えた。<br />
　金のない牧師だったカフリンは、ラジオ説教を始める。聴衆を集め、寄付金がまいこみ、イデオローグとなる。<br />
　神童と呼ばれたウェルズは、ラジオでドラマを放送し、映画にも手を染める。ウェルズの『火星からの侵入』は人々を本当にパニックに陥れたことで有名なラジオドラマだ。そしてラジオ・マラソンをしたケイト・スミスは、たくさんの戦時公債を人々に買ってもらった。</p>

<p><img alt="onlyyesterday.JPG" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/onlyyesterday.JPG" width="120" height="160" /><img alt="sinceyesterday.JPG" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/sinceyesterday.JPG" width="120" height="160" /></p>

<p>　『メディアの世紀』には、そうしたマスメディア史にいつも出てくるトピックがちりばめられ、そこに時代の英雄リンドバーグをからめながら進んでいくアメリカ史のひとつの物語となっている。なので専門書よりも印象に残るだろう。この本のいいところは、そんな印象的な記述と、なによりも読みやすいこと。短いセンテンスがとても小気味いい。浜野保樹は、この本以降はだらだら書いているような気がする。こんな文章書けるのにもったいない。<br />
　それとこの本は、２０年代と３０年代が中心だから読みようによっては、アレンの本の焼き直しのようにも読める、合わせて『オンリー・イエスタデイ』『シンス・イエスタデイ』（ともに、ちくま文庫だが絶版、古本で手にはいるはず、復刊求む）を読むといいと思う。</p>]]>
</content>
</entry>

<entry>
<title>国分寺市「人権に関する講座」講師任用をめぐる東京都の対応</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2006/01/post-48.html" />
<modified>2006-09-29T11:15:18Z</modified>
<issued>2006-01-25T03:46:55Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2006:/~ito//1.77</id>
<created>2006-01-25T03:46:55Z</created>
<summary type="text/plain">　また東京都がバックラッシュしてる。上野千鶴子が講師を拒否されたって。 　以下に...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>journal</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<p>　また東京都がバックラッシュしてる。上野千鶴子が講師を拒否されたって。<br />
　以下に公開質問状と抗議文それと新聞記事が公表されてます。</p>

<p>　それと同時に、抗議の賛同署名者を募ってます。<br />
　受付締め切りは、1月26日（木）正午、早いよ。</p>

<p>　<a href="http://www.cablenet.ne.jp/~mming/against_GFB.html">東　京　都　に　抗　議　す　る　！</a></p>

<p>　都の教育委員会は民主的じゃないってのがよくわかる。この件の対応だって、どうせ石原慎太郎とおっちゃん談義をしてるんだろうな。個々人の心情は否定しないけど、自分だけの感覚で物事を切るのはやめてくれないだろうか。問題は、そういうことが出来る仕組みになっていること。<br />
　関係ないけど、頼むから石原慎太郎を首相にしないでくれ。あ、安部晋三も。</p>]]>

</content>
</entry>

<entry>
<title>中村うさぎ『うさぎの行きあたりばったり人生』角川文庫、2002</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/2005/12/2002.html" />
<modified>2006-09-29T11:15:29Z</modified>
<issued>2005-12-29T02:11:26Z</issued>
<id>tag:home.kanto-gakuin.ac.jp,2005:/~ito//1.75</id>
<created>2005-12-29T02:11:26Z</created>
<summary type="text/plain">　読んだ。中村うさぎはファンタジー作家なんだけどブランド物三昧でとても有名で、そ...</summary>
<author>
<name>it</name>

<email>ito@kanto-gakuin.ac.jp</email>
</author>
<dc:subject>books</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="en" xml:base="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/">
<![CDATA[<p><img alt="usaginoikiataribattari_.jpg" src="http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/mt/archives/usaginoikiataribattari_.jpg" width="125" height="190" align="left" />　読んだ。中村うさぎはファンタジー作家なんだけどブランド物三昧でとても有名で、それを自虐ネタにしていっぱいエッセイを書いている人。<br />
　この人は、たぶんモノを欲しがる欲望を吐露しているだろうと思って、いっぱいエッセイが出てるから、どれにしようか悩んだけど『うさぎの行きあたりばったり人生』という人生を振り返ったものにした。この本は、2000年に単行本が出てるが、この文庫版はおまけの一章と神足裕司の解説がついているのでお得。すぐ読めた。<br />
　<br />
　この人はとっても正直な人だ。とても正直に自分がいま好きな物をなぜ好きなのかを振り返っている。思った通りだった。<br clear="all"></p>]]>
<![CDATA[<p>　まず最初から自分は、自己顕示欲、お姫様願望、田舎者コンプレックスと自己分析の結果を示してくれ、そのことが人生を振り返って語られる。けっこうズバリの言葉が多いので、ちょっと引用も含めて書いておきたい。<br />
　<br />
　前半は省略して、パラサイトOL時代。　「何かをやりたかった、それが何かわからなくて、まぁ、悶々としちゃったワケよ」で、たまたまコピーライターに転職、どさくさに小説家デビュー、なぜか売れて印税が入ると、買うつもりなかったのにシャネルのコートを買ってしまう(60万)。その時の嫉妬と羨望の視線に酔う。田舎物丸だしで麻布に住んで、その界隈の金持っているフリの暗黙のルールを会得し、高校生の時にヴィトンのバックを買ってもらえず、大学生時代に屈折したアンチ・ブランド派であったが、かつての失恋相手つまりいままで押さえていたブランド物三昧の日々に酔う。しかしほぼ借金生活（カードで月に300万とか使う）。</p>

<p>　なぜそんなことをするのか、自分のことを語る言葉が単純明快ですごい。<br />
<blockquote>「自分自身の価値の証明・・・・それこそが、ある意味、現代人が狂おしいまでに求めているモノではないのか。私がこの世に生まれてきた意味って、何なの？　私には生きる価値があるの？　あるとしたら、どれくらいなの？　他の人より上なの、下なの？」(p.142)</blockquote>　学生時代は成績がランクを教えてくれたけど、結局のところ自分のランクなんて誰にもわからない。<blockquote>「そこで、思わず飛びついた『わかりやすいモノ』・・・・それが、ブランド物であり、麻布に住むコトであり、プラチナカードであったわけですなぁ。愚かなり、中村。」(p.143)</blockquote><br />
　自分の行動を、そんなふうに語れないよ普通。泥沼の結婚離婚をへて（共依存だな）、買い物しまくる自分にマズイと思ったのか、近所にあった斎藤学のクリニックにいってもいる。依存症のグループ・セラピーを受けて、自覚をしているけど仲間になりきれなくて、というか嫌悪してやめる。だいたい、こんな風に自分のことを言えるんだから、グループセラピーはいらんだろこの人には。<br />
<blockquote>　「私がブランド物で身を飾るのは、空っぽの自分を『ひとかどの人間』に見せたくて、金メッキを施しているに過ぎない。前にも言ったように、私は『自分自身の価値』を数値化して（今日のファッションは総額三百万ですわ、ってな感じでな）、目に見える形で世間にアピールしたいのだ。それは、なぜか？　自分自身が実は無価値なのではないか、という不安に、常に脅えているからだ。私の人生には、どれほどの価値があるのだろう・・・・その問いに、答が見つからないからだ。なぜ見つからないのかとゆーと、人生に達成感がないからだ。なぜ達成感がないかとゆーと、そもそも生きるコトに目的も動機も持っていないからだ。」(p.154)</blockquote><blockquote>「いくら進んでも、ゴールはどこにもない。ゴールがないから、使命感も達成感もない。ただただ、漠然とした疲労感だけが身体の中に溜まっていく。／諸君、これが我々の現状である。そして砂漠の中に行き倒れそうになった者たちが、『癒し』というキーワードに飛びつく。あるいは、砂漠の中で『生きる実感』を失ってしまった者が、かりそめの『刺激』を求めて駆り立てられるような嗜癖に走り、依存症となる。またある者は、『生きる実感』がないから『死のリアリティ』もなくなり、虫のように人を殺してしまう。」(p.155)</blockquote></p>

<p>　中村うさぎは、女向けのものばかりにハマッている。<blockquote>「かつて『ブランド物』は、私にとって、自分の中の空虚さを埋め合わせ、無力で凡庸な自分を固める金ピカの『鎧』であった。それは周囲に対する『示威行為』であり、自分に対する『自慰行為』でもあったのだ。駄洒落でなく、本当に。」(p.164)</blockquote><br />
　　で、次はホストクラブ。これも自己分析してるけど、依存症渡り歩きの一種だという。指名したホストのランクが上がっていくのがうれしいらしい。<blockquote>「くだらない競争だってわかっちゃいるけど、『勝者の気分』を味わいたかったのよ。仕事でナンバー１になれる才能もない、女としてナンバー１になれる美貌もない。何もない私が、唯一、勝者の手応えを確かに味わえる場所・・・・それが『ホストクラブ』だったのです。」(p.168)</blockquote><br />
　つまり代理戦争だと。つぎはプチ整形らしい。</p>

<p>　この本は、自分の人生を振り返ると並行して「時代背景と中村うさぎ」という紹介もあって、これがまたまっすぐな説明でよい。1958年生まれだから団塊ジュニア世代まっしぐら。出てくるキーワードは、高度成長、テレビ番組『がっちり買いまショー』の記憶（買い物が娯楽であった）、ディズニーアニメ、三無主義、ベルばら、『なんとなくクリスタル』、『金魂巻』、アダルトチルドレンと自分を取り巻くものが見事に合致してる（当時の若者としての三無主義の否定も含めて）。</p>

<p>　ここまで自分を正直に語れるのはすごい。とはいってもその辺りの知識も蓄え勉強もしているから、時代診断をしている言説を自分の言葉にしていることにはなるだろう。でも、他の人は自分とは違う誰かのことを語るのだが、中村うさぎは自分はこうだと語る。そこがすごいと思う。</p>

<p>　でも、その言葉は依存症関係の心理学系の言説にあまりにも合ってしまっているような気もする。あんたはそこまで理論の通りかって。たぶん違う側面もあるんだろうけど、それが万人向けのエッセイストの性か、わかりやすく書いてしまうような所もあるだろうし、ハマッテイル自分のことが仕事にもなっていたりするし。<br />
　本当のところはもっと複雑なんじゃないかと邪推してしまうが、それは考え過ぎなのかー。もうちょっと、中村うさぎの周りのコミュニティがどうなっているか知りたい。本当にそんなに単純に割り切れているのかー。道理がわかっていれば、依存症的な行動はやめてしまうものではないのか。それとも逆に邁進するのか。うーん。</p>]]>
</content>
</entry>

</feed>