歌舞伎について
歌舞伎はなぜ難しく感じるのか

 私は歌舞伎を見るのが好きですが、諸君らは歌舞伎というと、難しいそうだと思っているのではないでしょうか。難しく感じる一つには、歌舞伎が主に江戸時代の言葉を使っているからですね。それが難しくさせているのは当然ですが、もう一つは現代の歌舞伎の上演方法に問題があります。

 昔のように他に楽しみが多くない時代は、朝から1日がかりでお弁当を食べながらのんびりとお芝居を見るということを好みましたが、現代はそうではありません。そこで現代の上演の仕方は、ある演目の面白い場面のみを1時間から2時間ぐらいで見せているのです。したがって、その芝居の前後関係がわかっていなければ、例え言葉がわかったとしても内容そのものがわからないということになります。

 そこで当代の市川猿之助は現代の人にも分かる言葉で、しかも4時間ぐらいで完結する歌舞伎を提案しています。それが「ス−パ−歌舞伎」です。物語の展開がスピ−ディ−で、スペクタクルな場面も多く、現代人にも楽しめるように大変工夫された面白い歌舞伎です。これから歌舞伎入門をする人も多いようです。

 それはともかく、歌舞伎は歴史上の事件を扱っていることが多いので、日本史などに興味のある人は、一度実際に見てみれば、その面白さを実感できると思いますよ。また、これは日本の伝統文化ですので、諸君らが米国文化に興味があるように、外国人は大変興味を持っています。したがって、歌舞伎を知っていれば、外国人と楽しいコミュニケ−ションを取れると思いますが・・・。

ダイナ−スクラブのパ-ティで尾上菊五郎丈と 市川猿之助丈の新年会にて
ダイナ−スクラブのパ-ティで尾上菊五郎丈と 市川猿之助丈の新年会にて
江戸歌舞伎の始まりを江戸三座から眺めてみよう!

 現代の歌舞伎をよりよく理解し楽しむために、今日の歌舞伎のル−ツを探ってみましょう。

<中村座>

 3代将軍家光の時代の1624年(寛永元年-日光東照宮陽明門完成の年)に、猿若勘三郎が京都から江戸に移り、今の日本橋通り丸善付近に芝居小屋を建てたのが江戸歌舞伎の始まりといわれています。猿若勘三郎は京都出身の狂言師で道化役を得意としていました。当時は道化芸を猿若芸といっていたところから、その名が来ているようです。したがって、その芝居小屋も当初は猿若座といっていましたが、昔はその場所が「中の村」と呼ばれていたところから、通称中村座と呼ばれていました。それで、3代目から猿若の姓を中村に変え、座名もそれに合わせ、屋号も中村屋となりました。これが今日の中村勘三郎のルーツです。

 ただし、中村勘三郎の名は明治以降長らく途絶えていたのです。それが戦後になって3代目中村歌六の3男が勘三郎の名跡を17代目として継ぐことになり復活したのです。現在の5代目中村勘九郎は、この17代目の長男です。なお、17代目は1988年(昭和63年)に亡くなっていますので、もうすぐ勘九郎が18代中村勘三郎を襲名する予定です。

 ここで少し中村歌六家関係に触れておきましょう。初代歌六は、1838年(天保9年-大塩平八郎の乱の翌年)に亡くなった3代目中村歌右衛門 (立役・女形、舞踏も得意という名優で、芝翫や梅玉という俳名を持っていたところから、後に初代中村芝翫を名乗る)の門弟でした。歌右衛門の初代は金沢の医者の息子(1714年・正徳4年生まれ)で、元は上方の役者でした。その屋号を加賀屋というのは、その出身地に因んだものです。この歌右衛門家が枝分かれし、現在の7代目中村芝翫、3代目中村雁治郎、さらには5代目中村富十郎など名優の系譜を作っているのです。現2代目中村吉右衛門も歌六家の系図に入っています。

 また、最近TV・映画で人気の出てきた若手歌舞伎役者・中村獅童は、歌六家の系譜です。戦後の時代劇スタ−として有名だった中村錦之助(後に屋号の萬屋を名乗る)は獅童の叔父さんにあたります。

 それはともかく、この中村座から始まった江戸歌舞伎は、その後大変な人気を得ましたが、一方で庶民の公序良俗を乱す部分もありました。そこで天保の改革を進めていた水野忠邦ら幕府は、当時江戸にあった芝居小屋の監視を強化するために、中村座のほか、後に述べる市村座と森田座の三座のみに興行権を許可し、1842年(天保13年)にその三座を浅草寺裏の馬道の近くに強制的に集めました。そして、そこに芝居町をつくり、その町名を猿若町としたのです。その名が付けられたのは、猿若座が江戸で最初の芝居小屋であったことや、1657年(明暦3年)江戸の大火事の後頃、京都で天皇の前で猿若勘三郎が芸を披露したなどから、その名が重きをなしていたからでしょう。なお、この三座制は明治に入った5年目(1872年)に幕を下ろしました。

 話はちょっとそれますが、1779年(安永8年)に岡崎勘六事勘亭と称した書道家に、中村座の狂言名題の看板を筆太に書かせたところ、それが評判を呼び、その「勘亭流」がその後、歌舞伎文字といわれるようになりました。ここでの文章のタイトルに使用されている文字が、その江戸勘亭流です。

 また、現在歌舞伎で使われている定式幕も、当時の中村座で使用されたものにそのル−ツがあるといわれています。ちなみに、この文章のメイン・タイトルの三色の色の並びが、定式幕の色の並びです。

<市村座>

 1634年(寛永11年、この3年後島原の乱)に、堺の出身の村山又三郎が江戸藁屋町に村山座を創設し座元となりました。2代目は村山九郎兵衛門で、その後興行権を譲り受けたのが上州下妻出身の市村宇左衛門で、座名を市村座と改称しました。それは伝承によれば、1667年(寛文7年)の頃とされています。これが2001年7月に亡くなった17代目市村羽左衛門のルーツです。

<河原崎座>

 1648年(慶安元年)に、越前山崎出身の河原崎権之助が木挽町に河原崎座を建てました。これが権之助家の始まりです。また、その幼名である河原崎長十郎は、後に前進座を創設した4代目長十郎のルーツになっているのです。このことについては後述しますが、1663年(寛文3年)に、次に述べる森田座に吸収合併され消滅することになるのです。

<森田座>

 4代将軍家綱の時代の1660年(万治3年-3年前に江戸明暦の大火事起きる)に、森田太郎兵衛が木挽町に森田座を建て座元になり、踊りのうまかった坂東又九郎に舞台を任せました。その又九郎は次男の又七を座元森田家の養子に差し出し、森田勘弥と名乗らせ、猿若勘三郎下で修行させ、後に森田を守田に改称しました。これが1975年に亡くなった14代守田勘弥(現5代目坂東玉三郎の養父)のルーツです。

 また、2001年に10代目を継いだ坂東三津五郎家の系統は、8代目市村羽左衛門の門弟であった坂東三八が大阪の竹田の芝居小屋の竹田己之助(1745年-延享4年生まれ)という和実に優れていた役者を江戸に連れ帰り自分の養子し、坂東三津五郎と名乗らせたところから始まっています。守田家と坂東家は縁戚にあたるところから、今では勘弥家は三津五郎家の系図に入っています。

<役者市川団十郎>

 このように、江戸歌舞伎は各座元の家の役者から始まり、その名跡は今日に受け継がれていますが、そうではなく、芝居小屋から育った役者の中で、江戸歌舞伎の中心的存在になって、今日の歌舞伎に繋がる形を作っていったのが市川団十郎家です。初代の幼名を海老蔵(父は下総出身)といい、1673年(延宝元年)に市川段十郎として初舞台を踏み、5代綱吉の時代の1693年(元禄6年)に団十郎と改名しました。この初代の創始した荒事芸が江戸庶民に大受し、江戸歌舞伎の代表的役者になって行きましたが、1704年(元禄17年)共演中の役者に刺殺され、45歳の若さで亡くなりました。なお、その2年前の元禄15年は、有名な赤穂浪士の討ち入りの年です。

<団十郎家と河原崎家の関係>

 12代家慶の時代の1846年(弘化3年)は、アメリカ人ビッドルが浦賀に来航し通商を求めた年でしたが、その前の年に7代目の団十郎は長男に8代目を譲り、5男を6代目河原崎権之助の養子に差し出し、3代目河原崎長十郎を名乗らせたのです。

 その後、3代目長十郎は初代河原崎権十郎を名乗りましたが、1868年(明治元年)に養父権之助の死去に伴い、翌年に7代目河原崎権之助を襲名し、河原崎座を復興させました。さらにその後、実兄の8代目団十郎の死去によって、7代目権之助は、1874年(明治7年)に市川家に戻り、36歳で9代目の団十郎の名跡を継いだのです。

 それに伴い、権之助家の子が8代目河原崎権之助を名乗ることになりました。そして、その子が1913年(大正2年)に、11歳で4代目河原崎長十郎を継ぎましたが、この4代目が29歳になった1931年(昭和6年-満州事変の年)に、歌舞伎の因習 (世襲制など)を打破する運動を起こしました。しかし、明治に入って創設された「歌舞伎座」の座元には受け入れられませんでした(その創設は明治22年・1889年、大正2年・1927年から座元は松竹株式会社)。それで、上記のような親戚関係にあった団十郎家と袂を分かち、中村翫右衛門(現中村梅之助の父)らと新しく「前進座」を創設したのです。

 しかし、その4代目河原崎長十郎の長男の河原崎長一郎は映画俳優になり、2003年9月に64歳で亡くなってしまいました。このように河原崎座から始まった河原崎権之助家(幼名長十郎)は、いろいろな浮き沈みを経るという悲運な系譜であったといえましょう。
 
(2004年1月記)